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PINOOKFACTORY
 
プロフィール プロフィール
松本良久(ピノック・ファクトリー)
エピソード
過去の出来事を忘れないように記憶を残すために作りました。

小さいころから海と丘陵地や公園で日が沈むまで外で遊ぶのが大好きで、冬でも真っ黒に日焼けした少年でした。 池や田んぼでフナやドジョウを捕まえたり、セミやトンボなどの虫を捕まえていました。海では素潜りでカニを捕まえたり、貝殻・ガラス片・漂流物を拾っては持って帰っていました。 小学校、中学校も常滑市内で常滑高校のデザイン科を卒業後、印刷会社に就職し、グラフィックデザインをしていました。 常滑を離れることなく40歳を過ぎてから地元の海岸で拾った流木を使って工作を始めました。 グラフィックという平面を仕事にするかたわら、立体を趣味に始めたころは、なかなか上手くいかずノコギリさえ真っすぐに引けませんでした。 時が経つにつれ少しづつできるようになり、2008年には名古屋の栄にて初個展を開くことができました。 その後会社を退職して2009年の夏より、皆様からの温かい言葉をいただき、人の気持ちを優しくできることを楽しみに作っています。
2010年ころから木下幸男氏と出会い、暮布土屋通りのロテン長屋で木下氏と古道具や陶器を販売しながら充実した毎日を過ごしていました。 2013年3月、その木下氏が病気で亡くなりロテン長屋を受け継ぎ、今では「器・ロテン長屋」として続けています。 2015年3月には、手作り雑貨店「暮布土工房なみのこ」を開店しました。各地で個展やイベント参加などを楽しみながら日々を過ごしています。

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  1 再会
  2 経験値(魚釣り編)
  3 生き物たちからの生命
  4 ダイビング
  5 宇宙
  6 流れ星
  7 ちょこっと痛いはなし その1 「感電」
  8 ちょこっと痛いはなし その2 「刺さる」
  9 ちょこっと痛いはなし その3 「着地失敗」
  10 ちょこっと痛いはなし その4 「初手術」
  11 ちょこっと痛いはなし その5 「アシナガバチ」
  12 ちょこっと痛いはなし その6 「初骨折」
  13 ちょこっと痛いはなし その7 「火傷」
  14 写真
  15 海泉倶楽部の芽
  16 流木
  17 ガラスのかけら
  18 木下幸男さんへ
  19 ちょこっと痛いはなし その8 「蜂刺され、再び」
  20 ちょこっと痛いはなし その9 「骨折part2」
  21 ちょこっと痛いはなし その10 「骨折part3」
  22 ちょこっと痛いはなし その11 「骨折part4」
  23 隕石?
  24 バクダン
  25 メキシコへ
  26 虫垂炎
  27 海と陸との境界線
  28 西部劇
  29 スズキくん
  30 漂着物
  31 日焼け痕
  32 ハイジャンプ
  33 マラソン大会
  34 
  35 祭礼
  36 海水浴(若狭湾)
  37 海水浴(柏崎)
  38 山形
  39 映画
  40 アメリカ
  41 47都道府県
  42 料理
  43 となりのお兄ちゃん
  44 ポンスケ
  45 田んぼの藁家
  46 カメとザリガニ
  47 松本かん
  48 姓名判断
  49 内職
  50 買い物かご
  51 テツ(犬)
  52 ミィ助(猫)
  53 裏の鶏
  54 郵便局
  55 焚き風呂
  56 誰にも言わない話し
  57 就職
  58 グラフィックデザイン
  59 研修
  60 残業
  61 選択肢
  62 横須賀
  63 高校受験
  64 入学式(高校)
  65 入学式(中学)
  66 角島先生
 
1 再会
 
人は生きるための食材として生き物たちを捕まえ食べています。この地球上での食物連鎖の頂点に立っている人間が考えた生きるための知恵でもあるのでしょう。人は衣食住の3つの要素で生かされている生き物だけれど現代では感情やストレスといったことで生きられない人も増えています。医学の進歩によって病気も治せるようになりましたが、現代病といわれる「うつ」を治す医療はありますが、年々その病気にかかってしまう人の増加の加速度は上がる一方です。社会の流れが激しすぎ、その波に乗れずに流されてしまう人が求めるのは、ストレスからの解放だと思います。自分らしさを表現できる場所や人を求めるようになります。自分自身も数年前「うつ」になり、春を迎える少し前の2月ころから人に対しての感情が高ぶり傷つける言葉をだしてみたり、目の前の現実から目を背けてしまったりしています。もっと優しくできるようにしなくてはいけないという思いが逆に自分を攻めたりします。また、相手の悪い所を探してみたりもしてしまいます。人を助けようと行動に移すことは良いことだと思いますが、その相手が何人もいて抱えきれずに考えられなくなった結果が「うつ」につながってしまいました。カウンセリングの先生の所に4、5回通った中で人が助けを求めていると感じたら「断る練習をしてみましょう。」という言葉に少しだけ光が見えてきた気がしました。それからは、自分の抱えていたものが一つ一つ減っていき、気が楽になりました。そんなころ出会ったというより、再会できた友人のY君。彼の生活サイクルは自分と全く逆で、何度かY君の家へ遊びに行くうちに小さい頃から好きだった魚釣りという共通の趣味があり、一緒に海へ行く回数が増え釣りへの興味が変わりました。もちろん、最終目標は釣り上げることで、それは小さい頃と変わっていません。自然の中で、海で、海からの恵みをいただくと同時に時間の使い方を学びました。
 
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2経験値(魚釣り編)
 
これはまだ会社勤めをしているコロの話ですが、小学生の時から仲の良いY君とのお話です。 仕事以外の時間の楽しい使い方を探しだすことができたのが、Y君との魚釣りの時間です。最初の頃は自分の釣りというものが見つからず、毎回Y君の方が多く釣っていました。悔しさより、どうして?の気持ちの方が強く、釣りに対して悩みました。いろいろなことを考えた結果、自分には魚を釣ってやろうという殺気がにじみ出ていて釣りに行く前からすでに魚が警戒心を持ち、自分のエサには近寄らないのでは?とか、自分の体臭がエサをつける時の指の臭いがエサについて魚が避けて行くのでは?とか、釣りに対しての焦りがいけないのか?とか、仕掛けに対して効率を求め欲が出ていないか?とか、エサを投入する場所がいけないのか?その他にも考え出したらたまらない程悩みました。そして、Y君と語って出てきた回答は、経験不足だけという単純な結果に納得して落ち着きました。思えば、Y君の生活サイクルでは、いつでも気の向く時間に海へ行き短時間でも不完全燃焼でもなく、いつでも行けるから釣りや釣果に対して欲もなく、多い時には年間200日以上の釣行をしていました。せいぜい週に一回で年間52日の自分の釣行に対して4倍もの経験をY君は積んでいたのです。Y君の釣行200回の中には当然ボウズもあり、大漁もあり自分が悩んだあれこれを4倍経験していたことが釣果の差に現れていたことに気付いたときは、頭の中が真っ白になりました。二人での釣行回数は次第に減ってやがて一人での釣行になりました。Y君との楽しかった釣りがなくなったことで寂しい感じのまま一人で海にいると心細く、会話もなく黙々とした釣りに変わりました。 その後Y君は、なにやら楽しい事をしていますが一緒に釣りには行かなくなった今でもY君宅にはお邪魔しては世間話をしてきます。
 
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3生き物たちからの生命
 
小さい頃住んでいた所には丘陵地と海が近くにありました。丘陵地では、水田のための小さな池がいくつもあって、フナやザリガニ釣りをしたり、水田に流れ込む水んが溜まる場所で靴を脱ぎ、ひざまで足を踏み込み手探りで魚を手づかみで捕まえていました。その最初の一歩を踏み入れるときのニュルっとした田土独特の感触は今でも忘れられません。農家の人がけがをしないように堅いものが混ざっていないためか、何とも滑らかな、ちょこっと融けかけたアイスクリームのような感じの土でした。魚を捕まえてどうする訳でもないのですが、とりあえず一緒に行った友達が大きなポリバケツを持ってきたりして、魚をその中に入れるだけのことでした。帰る頃には逃がしていたり、数匹持ち帰って洗面器に水道水を張り、その中で飼ってみたりしていましたが、当然長生きする訳もなく翌朝にはお亡くなりになっていたこともしばしば。まれに、持って帰ったフナが洗面器の中で産卵していたのを見つけたときは、「こんなにたっぷりの卵が魚になったらすごいだろうな。」なんてことを考えていたことを覚えています。自然の営みも知らない少年の頭の中ではその期待感がいっぱいで、毎朝洗面器をのぞいては卵の成長ぶりを観察するも、何の変化も見られずやがて卵の色が変化し、生臭い香りが部屋を漂いはじめた時には家の前のドブに流してしまいました。子供は無邪気だけど、非常に残酷んでもあります。自分の手で捕まえられる生き物の命に対する考え方は年を重ねるにつれて変わり、命の大切さを亡くなっていった生き物たちから教えられました。しかし、当時は捕まえることに興奮していました。 この地域では、魚などの水辺の生き物を捕まえることを「ポンスケ」と呼び、多くの少年たちはその経験があります。中でも自分は、ほかの子供たちよりもカメに出会える機会が多く、何匹も捕まえました。やはり、カメは珍しかったので時々学校の教室の水槽に入れていましたが、ちょっとした自慢でもありました。が、珍しいカメは人気があり、数日後にはいなくなっていました。別に誰のものでもなく持ち出し禁止という訳でもないので、なんの悔しさも残らず、捕まえてはその水槽に入れていました。何度も懲りずに持っていくうちに先生に止められた気がします。 その後、カメとの出会いは変わらず家でも飼うようになり、20センチを超える甲羅のカメを使わなくなった風呂桶で飼っていました。カメのエサって何だろう?と思いましたがとりあえず、さきいかをあげていましたが食が進まないようでした。その頃はさきいかでザリガニを釣りに行っては50匹程持ち帰り、バケツの中で飼ってました。とても窮屈だったのであのカメのいる浴槽へ入れてみました。最初はカメがザリガニに挟まれないかと心配していましたが、なんと、日に日にザリガニの数が減っていたのにはびっくりでした。それからというものはザリガニを釣りに行っては浴槽へ入れていました。何週間が経ち浴槽から生臭い香りが漂うようになり2匹のカメを池に返してあげました。 ほかにも小さなカメもいてそれは別の鉢で飼っていました。その環境は土を入れ芝生をちぎって水を入れ、市販の金魚のエサをあげていました。何か月も経ち、やがて木枯らしが吹く頃にカメが土に潜るようになったので、時折エサをばらまいておくようにしていました。やがてそのエサも食べなくなり雪の季節を超え、菜の花にミツバチが音をたてて飛び交う頃にそろそろ冬眠しているカメを起こしてあげようかと土をかき分け探していたら、まるで標本のようなカメの形をした白いものが現れたのです。 人が、子どもが生き物を育てる難しさは特に誰かに教えられることもなく、自分がここまで成長した過程の裏では何百の命が犠牲になったことでしょう。ありがとうございました。フナ・ドジョウ・メダカ・オタマジャクシ・カエル・ヤゴ・タガメ・タニシ、その他思い出せない程の生物に加えて、野原の生き物たちも同様に自分の満足のために命を落とされていったトノサマバッタ・クルマバッタ・ショウリョウバッタ・チキチキバッタ・イナゴ・キリギリス・マツモムシ・カミキリムシ・クワガタムシ・コガネムシ・カブトムシ・セミ・ミミズや名も知らない昆虫やトカゲ・ヘビなどの多くの種類とさらに多くの命と引き換えにとても大切なものをいただきました。 野原や森に対して海に生きる生き物を捕まえる種類は少なく、カニ・ヤドカリ・イソメ・トビムシ・小魚などです。どれも命には変わりはないけど森の中よりは少なかったです。子どもにとって海は、あまりにも大きく、そして強い存在でした。大人になった今でもその存在感は変わりません。水の中では生きられない人間には超えることのできない領域であり、そこで生きている生き物たちの世界があります。
 
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4ダイビング
 
まだ、十代の後半のころ友人のK君がスキューバーダイビングクラブに入っていました。高校生の頃から始めたそうですが、中部地区大会ではそこそこの成績を持つ実力がありました。そんな折り、高校生のときにK君からアルバイトの話が転がり込んできて、やってみることにしました。仕事の内容は、内装の壁紙や床のクロスを張り替えや新築の家の内装をすることでした。もちろん自分にはそんな技術とか経験等はありませんでした。しかし、素人でもできる資材の後片付けや、現場の廃材をドラム缶の中で燃やすことでした。今思えば、職人さんが雑用をやっていたのでは時間がもったいないと思うので、アルバイトがする仕事に向いていました。特に、壁紙が貼れるように成りたいとかクロス張りの技術が欲しかった訳でもなく、社会人の予備軍んとして働ければそれで良かったのです。 そこの内装屋の大将がたまたま水中競泳中部地区支部長さんであったことが分かり、バイト中には大変かわいがっていただき、事の成り行きでスキューバダイビングのライセンスを持つことになっちゃいました。そんなど素人がある日、K君にダイビングがしてみたいとお願いしたら彼は快く了解してくれました。会社が終わった5時から急いで家に帰り、早々に夕食を食べてお風呂に入って、一人で車に乗って東名高速道路をひた走り、K君の住んでいる世田谷区に着いたのが12時近かったと思います。夜の高速を走っている最中に、あろう事か前方のトラックのリアバンパーが落下。火花をあげてみるみる自分の車に近付いてくるではありませんか。高速道路なので急ハンドルは禁物で、意を決して火花が吹き出るバンパーを乗り越える判断をしてハンドルを力一杯握りしめ、火花に向かいました。ゴンという音と衝撃が車内に響いた瞬間、タイヤは破裂してないか?オイルやガソリンは漏れてやしないか?車体の裏の部品は破損していないか?とかいろいろなことが一度に頭の中を駆け巡っていました。そして、動揺も少し落ち着いた頃にサービスエリアに立ち寄り、スタンドでその経過を説明し、車体周り等を点検してもらいました。特に外傷も部品の損傷も無いと言うことで、給油して再び東名高速へ戻りました。高速道路ではそんな事件がしばしばあるそうです。 途中の海老名サービスエリアでK君へのお土産を買おうと思い店内を見回していたら、おいしそうな鯛茶漬けがあったのでそれを買って高速に戻りました。そして、いよいよ東京インターチェンジを通り抜け、首都高速道路へ突入。間もなくしてから見覚えのある渋谷のインターを降りて三軒茶屋の交差点を太子堂方面へ曲がり商店街の路地からすぐのK君のアパートに到着したのが12時頃でした。 夜中の到着にも関わらず奥さんも快くお出迎えをしていただき、しばしお互いの近況報告をしてから就寝。翌朝7時頃に目を覚まし昨夜の落下事件等を思い出してはゾッとしながら二度寝に入ろうとしたが、気が付けば腹が減っていたことを忘れていた。K君夫婦は起きてくる気配もなく腹のへこみを気にしつつ忍び足でのトイレを済ませ、寝床に帰りもう一度眠ろうとしたけどやっぱりダメでした。そして、約2時間後の9時30分頃、K君夫婦がお目覚めでようやく朝ご飯にありつけました。あったかい白いご飯に東京ならではの白味噌のお味噌汁にもう一品は定かではないが何と言っても空腹を満たすためには一刻も早くご飯を腹にかき込まなければとおかわりもしてガツガツ食べた。 奥さんのおいしい手料理をいただき、早速出発の準備にかかった。その頃乗っていた車は、ニッサンのちょこっと変わった形のパオ。ハッチバックを開けてウェットスーツ、ボンベ、水中カメラセットなど詰め込んで出発したのが10時30分ころだったかな。そして、自分の運転でいざ出発。が、行き先は伊豆。ただ、それだけを聞かされて昨夜走った東名高速道路を南下した。伊豆の土地名もよく知らないので助手席のK君のナビにてひた走り、途中運転を交代しながら海沿いの坂道をパオが苦しそうに上り下りを繰り返しながら約3時間のドライブが終了。で、ここはどこ?と聞いてもよく分からず気にする間もなくダイビングの準備にかかった。ダイビングショップのオーナーとK君は顔なじみで事前に自分の体験ダイビングのことも連絡済みであっという間に海岸へ行き、漁港らしき港のスロープから海へ。が、ボンベが思ったより重かった。ちょうど居合わせた他のダイバーの中には20歳前後の若い女の子たちがいて、地面に置いたボンベをひょいと肩に担ぎ、ゴーグルにシュノーケルを身に付けて入水。あんなに軽そうに担ぐのを見た後だったから、自分もボンベの肩ひも肩に掛け担ごうとしたら、ん?持ち上がらない!なんで?と思い、K君を見たらやっぱり、ひょういと担いでいた。どうも腰を使うコツがあるみたいだった。なんとか自分も担ぐことができ、海中での簡単な手話のような合図をいくつか教えてもらって、海底を見ながらフィンをかる~く交互に動かしてゆっくり前へ前へと進み水深10メートルくらいの処でいよいよダイブ。マスクの中には海水が入ってくるし、レギュレーターと言う口にくわえる酸素を吸うためのものからは止めどなくエアーが入ってくるは、何と言っても初めての水深10メートルの世界はあまりにも感動を超えて恐怖さえ感じました。しかたなく、K君に不調の合図を手話で伝え水面まで上がらせてもらった。完全に海をなめていました。自然を相手に自然の掟も知らないど素人が向かう相手ではなかった。水面から一人、スロープまで自力で泳ぎ、ひざ程の水深の場所でマスクの水抜きの練習を10分程して、気持ちを改めていたときに、ショップのオーナーが気にして迎えにきてくれた。こんな自分にも優しく扱っていただいたオーナーは自分の手を握り徐々に沖へ連れて行ってくれた。最初の入水では気が付かなかったが、海底にトラロープが金具で打ち込んであった。さしずめ、海底の道路案内だ。オーナーは自分の手をしっかり握ってくれながらゆっくりと進みながら時折自分の調子を伺いながら案内ロープに沿って進んだ。オーナーが途中いきなり手を離し、海底の砂を両手でそっと持ち上げた。なんと、その手のひらにはカブトガニ?が乗っかっていた。自分がもう大丈夫だと分かったオーナーからの優しいプレゼントでした。大自然の海の中で人とのふれあいを経験させていただき、本当に感謝しています。再び、オーナーの手を握る自分の手がさっきより少し力を入れたのは、言葉が使えない海中でのオーナーへの感謝の気持ちでした。自分のような初心者をよく知っているオーナーは自分の気持ちも分かってくれていた。少し早くフィンを動かし、K君の待っている場所まで一気に進んで行った。K君は自分と目が合った時に「大丈夫か?」と言わんばかりの言葉のない言語が伝わってきた。あれは、なんなんでしょう?言葉を知らない動物や魚が交わすものなのでしょうか?とても不思議な体験でした。K君はそこでアオリイカの産卵の撮影をしていました。海に入る前から注意事項として海底では砂を舞い上がらせないという約束があって、舞い上がる砂により撮影に支障を来すためだった。どこの海かも分からない場所で二人は胸の前で腕を組みじっとアオリイカ卵を鑑賞していた。そして再び撮影が始まり自分は少し距離を置いての海底探索に出かけました。アオリイカに気を取られてオーナーがいなくなっていたのに気が付いた。店のことがあるので戻ったと感じました。360度が海。なんとも当たり前の現実なんだけど日常生活ではあり得ない光景で感動を超えていました。下から魚を見る。水族館ではない、天然の魚が右往左往、自由に泳いでいる。まるで自分はよそ者で「人間がなにをしにきた?」と様子をうかがいながらこちらを見られているような感じだった。そんな時、奇麗な青い体の魚が自分の上を悠然と泳いでいた。太陽の光の屈折の具合か真っ青に見えたその魚は実は、真鯛でした。確かに真鯛のうろこには小さな青い点があるのは知っていたが、海底から仰ぎ見るうろこがあれ程までに青く光り輝くとは思いませんでした。海の中では次から次へと見るものが新鮮でいちいち感動してしまいます。砂を舞い上がらせないために自分の取った行動が海底を這うように移動することでした。何億年前かの胸びれが手のように進化した生き物のようにゆっくり、ゆっくり動きながら辺りを見回しては生き物を探し近寄って行く。そんなことをしていたら、気が付かないうちに猛毒で有名なミノカサゴがなんと自分の真横に平行して泳いでいました。刺されるのではないかと緊張しながら前進を続け、止まった。ミノカサゴガ自分を追い抜いて行くのを待つつもりで。さらなる緊張感!ミノカサゴも止まった。絶対刺される。これ以上動いたら刺される。K君は視界には入っているが撮影に没頭しているのでこちらの状況に気が付くはずもなく、この状況をなんとかしなくてはと考えました。相手もそこそこは警戒心を持っているはず。ゆっくり上昇した。そしてフィンを動かし5メートル程前進して再び海底に着地。ミノカサゴは追ってこない。やれやれ。海底探索を再開して見たことあるような青魚のアジや鮮やかな色をした魚たちを鑑賞していたらミノカサゴが目の前に立ちはだかった。しかも相向かいにこちらを見ている。さっきの緊張感以上のものが自分の体を石のように固まらせた。どうしよう?ゆっくりと後ずさりをして逃げようとカメレオンのようにゆっくりと動いた。しかし、ミノカサゴも付いてくる。そんなことを続けて何メートルか後ろに行く途中で、こいつに攻撃する気はないと感じた。猛毒を気にしてビビっていた自分は気持ちを切り替えて、少し前へ動いてみた。すると、ミノカサゴは後ずさりを始めた。そして自分の体の顔の隣に平行に前を見ている。どこまでも付いてくる。なんか楽しく成ってきた。しばらく一緒に泳いでいたがあいつも飽きてきたのか用事ができたのか、自分から離れて行きどこかへ行ってしまった。その後再会することもなく行ってしまった。気が付くと、ボンベの酸素の残量が残り少なく成っていたので迷わずK君のところへ行き、メーターを見せた。ところが、同じボンベを背負っていたはずがK君のボンベの酸素はまだ三分の一程残っているではないですか。しかし、こっちのボンベの酸素は残りわずかだったので海中での唯一のライフラインである酸素が底をつきてしまったら命に関わることなので焦ってしまった。K君は余裕で「大丈夫!」の感じを見せつけ口にくわえるレギュレーターを自分の口に持ってきた。なに?一本の酸素を二人で使うってことか?と言うことでした。K君の残りの酸素を二人で使ってしばらくして、ようやく海上へと向かってくれました。その途中、K君はいきなり口からレギュレーターをはずし、口の中の酸素を一気に吐き出すかのように天を仰いだ。すると、その空気は奇麗な輪を描き上からの光を浴びて銀色に輝きながらゆっくりと上に昇って行きました。何とも言えない美しいワッカは海面に着く頃には海に溶け込んでしまいました。最後にとても良いものを見せてもらい、嬉しかったです。 丘に上がり、道具や体の潮ををぬるめのお湯で洗い流しオーナーのショップに戻った時には、すでに2時を過ぎていました。急に空腹感を感じたと思ったら先に帰っていたオーナーがパスタとピラフを用意してくれていました。これがまた、うまい。聞くところによれば、オーナーの店の近くには岩城滉一さんの店があり、時々伊豆に来ては一緒に潜っているそうです。それもまたいいな。とにかくこの日は生涯忘れることのできない一日でした。K君、オーナー、本当にありがとうございました。
 
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5宇宙
 
オレンジ色と紺色のグラデーションに包まれるとても美しい夕陽を何度か目にしたことがあります。特に夏の夕陽は大好きです。海に映る夕陽のオレンジ色の波光は、まるで黄金の砂丘にも見えます。陽が沈み空がすみれ色に染まる頃もとても奇麗です。その間約10分は自然の壮大感より宇宙的なものを感じます。一番星の宵の明星といわれる金星は地球のお隣さんですが遥か向こうのお隣さんです。ちょっと隣まで行ってきますでは行けれませんが近い将来、そんなことも出来る日がこない訳でもなさそうです。逆に金星人が地球に訪問してくるかもしれないです。そんな宇宙のことを想像するのも楽しいです。夢があり、ちょっとした希望が持てる時代にもなり大変興味ある場所でもあります。実は、就職して初めていただいたボーナスで100ミリ口径の天体望遠鏡を買いました。それまでの星空は絵に描くようなキラキラ星の集まりで、所々に密集しているのも肉眼で見えました。どの固まりが何で、どの星が何たらで星座の形はこうでとか、いろいろ調べたこともあって、楽しかったです。 天体望遠鏡にはいくつかのレンズがあって、倍率の大きなレンズを通して見る星は大気の流れがカゲロウのようにゆらゆらして見えますが、考えてみれば自分とその星の間にはどんな物差しでも計れない程長い距離があり、その星と自分とが見える光によってつながっていると思うと鳥肌モノでした。木星の衛星がいくつも横に並び木星自身の横しまが見えた時とか、土星の輪っかが見えた時もその距離は文字どおり天文学的な距離なのに身近に感じたのにはとても感動的でした。その倍率で月を見た時にはさらに感動しました。月を見るというよりは、月面を上空から見下ろしたような錯覚にすらとられるものがあり、クレーターの周りの山肌が見えた時に、とっさに想像したのが誰かがそこに居るようで、こっちを見られているような不思議な気持ちになりました。ある雑誌ではノロシのような煙が立ち上がるのを見たとか。月面の現実を知らない人にとっては本当の月の状況が分かったら、もったいないかもしれません。月にはウサギがいて四六時中餅を突いてて欲しいですよね。一説によると地球からは見えない月の裏側ではすでに、人類が研究のために生活をしている噂も出ているようです。その人たちと一緒に本物のウサギが月に住んでいたらどうなんでしょう。そこまでの想像にかき立てられる程の魅力的な場所でもあります。いずれにしても、誰も知らない宇宙の真実を個人個人が夢を持ち、想像する楽しさは自由であり誰も否定できない領域だからこそ、自分が勝手に作れる宇宙が60億種類もあってもいいです。
 
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6流れ星
 
西暦何年かは分かりませんが私が十代後半、ペルセウス流星群という宇宙の壮絶な現象は、天体が好きで星空を眺めるのが好きな自分にとってとても衝撃的なことでした。午後8時頃星の間を縫うように一筋の流れ星が頭上を横切りはじめ、やがてその数は次第に数を増し、一度に幾つもの流れ星が飛び交う程でした。中には西から東へ天空を真っ二つに割る程の長い尾を引く流れ星を見た時には地球に大変なことが起こるのではと心配しながら見ていました。流星群は夜中の12時を過ぎても数の衰えはなく、次々にどこからともなく飛び出してきました。見上げていると首が痛くなるので地面に仰向けに寝転んで見たりしながら明け方近くまで天体ショーを見ていたことがあります。 夜釣りをしていても天候が良い時には10分に一度くらい流れ星が見えます。名前は忘れましたが流星群も見えました。流れ星に願い事を唱えると願いが叶うと小さい頃から耳にしていました。一緒に釣りをしていたY君と二人で釣りに行って間もなく、一つの流れ星を二人が同時に見つけて「あっ」と同時に声をだし、次に見つけたときは「魚が釣れますように」と唱えていましたが、やがて、流れ星の数が増えてきてからは、唱える言葉が長いと言いづらいので「セイゴ!」と言っては竿を振り、次には狙いの魚が大きくなり「マダカ!」と何回も言いました。二人は楽しくなってきて気持ちいっぱいに「スズキ!」と大きな声を出しては竿を振り、魚釣りを楽しんでいました。釣果はそこそこ10匹くらい釣れたと思います。 夜釣りも何度か行くうちにとても珍しい流れ星を見たことがあります。それは、音と煙を立てて真っ赤に色を放つ間近で見る流れ星です。今までに2度の体験があります。海への着水の時にはジュッと音も聞こえました。確かに毎日宇宙の塵が地球に落ちているとはいえ、このような流れ星を2回も見えたのは本当に幸運だったかもしれません
 
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7ちょこっと痛いはなし その1 「感電」
 
私は電機が苦手で温泉とか銭湯によくある電機風呂でさえ入れません。まだ小学生の低学年の頃、水銀灯はなく木製の電信柱に傘を付けた裸電球が備えてあり日没頃に町内の誰か気の付いた人がスイッチをつける電灯でした。いつものように、夕暮れ時まで近所の子どもたちが遊んでいた時に、裏のお兄ちゃんのG君に「電器をつけてきて」と言われ、そのやり方を教えてもらってやや高い場所にあるスイッチに背伸びをしながら足を振るわせやっと届いた指先が摘みの奥まで伸びた瞬間、痛くもなく熱くもない衝撃が肩まで走り、何とも言えない感触に驚きました。しかし、心臓の鼓動だけは体の中で大きく響き、涙を堪えながらG君のところへ走って戻り、黙っていたら「感電したか!」と一言。近所の男の子は大抵これを経験していたらしく「一度体験すると次からはしなくなくなくらか。」と。何十年も経った未だにあの感触は残っています。誰が発明してたのか、あの衝撃をどうやったら現代の電化製品につながるのかは分からなくてもいいですが、突拍子もない発想を持った人が考えたことでしょう。
 
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8ちょこっと痛いはなし その2 「刺さる」
 
子どもに付き物なのが擦り傷や切り傷で、私の体にも幾つもの傷跡が残っています。空き地に放置されていたキャロルという車があって、フロントガラスは無く、屋根やドアもボコボコにへ込んだ車の中や屋根に乗っては飛び跳ねていた時に、ちょこっと足を滑らせ、折れた方向指示器の棒が向こうずねを2センチ程えぐるようにしながら床まで落ちてしまいました。肉片が床に落ちていて骨のようなものが見えていましたがさほど出血も無く痛みも激痛までは行かないのでそのまま遊びに夢中になっていました。家に帰って赤チンを塗りバンソウコウを貼っておしまいの治療でかさぶたになり、それを捲ってそれっきりです。偶然にもばい菌は入らず今では傷跡が残っただけになっています。 中学の時にヤツデといわれるパイナップルのお化けみたいな学校ではよく見かける植物で、その葉は大きく先が鋭く尖っています。校内清掃のため先生が茎からノコギリで切り落としそれを自分達が処分場まで運んで行くのが役目で、引きずりながら運んでいた時に鋭く尖った葉の先が右の太ももの横辺りにブスッと刺さってしまいました。最初は蜂に刺されたのかと思ったら以外に傷跡が大きかったので葉っぱの先だと気付きました。その傷は赤色のままで残っています。
 
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9ちょこっと痛いはなし その3 「着地失敗」
 
中学生の時にクラブ活動以外に選抜の選手だけが出場できる陸上の市内大会チームに選ばれて、特に好成績はなくまんべんなくこなせることができたので、三種競技に出場することになりました。100メートル走と砲丸投げと走り高跳びの三種競技の総合得点で競う種目でした。その中で、三種目選手用と高飛びだけの選手用の2セットがあり高飛び選手の落下場所はスポンジが詰め込んであるマットでした、方や三種目選手の方は砂が山に積んであるだけの物でした。自分の飛ぶ形は背面飛びで、なぜかそれしかできなかった。しかし、中学生での背面飛びは危険なので途中で禁止になりました。仕方が無いので飛び方を変えるため、高飛び選手用のスポンジマットで練習ができるように頼んで開始しました。やはり背面跳びのように高さは求められない。165センチの記録を持っていたのですが形を変えたからは記録が伸びず何回も挑戦しているうちになんとなくコツが分かり大きな円を描くような助走からの踏み込みで跳んでみました。いい感じに踏み込みができふわりと体が宙に浮いたと思たら着地用のスポンジマットを超え、運動場に右尾てい骨を引きずっての着地になりました。打撲と擦り傷でしばらく立てれず横たわっていましたが先生が来て立ち上がらせていただいて、そのまま保健室に運ばれました。オキシドールと言う薬品で傷口を消毒するのですがこれがまた、痛いのなんのって思いっきり歯を食いしばりその痛みに耐えていました。そして赤チンをつけての治療終了。その傷跡も残っています。
 
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10ちょこっと痛いはなし その4 「初手術」
 
中学の部活では、バスケットボールを選択し、日々練習に明け暮れていましたが、どうもバスケのセンスが無くて今ひとつ上達しませんでした。むしろ本来のバスケより基礎体力をつける筋力トレーニングの方が好きで、腹筋、腕立て伏せ、ダッシュ走法などが楽しく時間を過ごすことができました。海岸が近くにあるのでジョギングは砂浜を走りとなりの港の堤防にタッチして戻るランニングと言われる基礎体力を毎日欠かさずやっていました。砂浜にはいろんな漂着物があり中には船体が壊れた一部が打ち上げられていて、中には釘が飛び出しているものまであって、運悪くそれを踏んでしまったのです。2、3センチ程刺さり抜く時には痛みはあったけど走れない程ではなかったのでなんとか学校までたどり着き先輩に報告したところ保健室で治療してくることになり、あのオキシドールでの傷口の洗浄が待っていました。1週間程すると傷口は治り日常生活に支障はないところまでになって、約一年程したらその傷の中で何かの固まりが孤立して動くようになり当たりどころによってはその固まりを踏んでしまい、激痛があることが時折あるようになり先生に相談したところ、病院で検査してもらうことになりました。結果は、手術で切って開いて中の固まりを摘出することになりました。最初はうつむせに寝て、足の裏を表に見えるような格好で、何人かの人に足を押さえられ、どんな注射器か分からない麻酔を討たれました。めまいがして気を失いそうな激痛が頭の先まではしり抜け、麻酔注射がその後2本討たれました。それだけで全身麻酔になるところでした。そのせいか、手術中の痛みはなく寒さに冷えきった指先を刃物で切り裂くような感触のまま手術は終わり順調に回復して行きました。そして半年くらい経ったころ左足の踏んばりが効かず、違和感を持っての歩行になりました。あるはずの肉体の一部が手術によって無くなったのだから筋肉のバランスが崩れていたのです。その痛みをかばうようにして歩く癖がつき、凹脚の足がさらにぎこちない形に変わり、慣れるまでは大変でした。その傷跡も結局今でも残っています。
 
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11ちょこっと痛いはなし その5 「アシナガバチ」
 
育園のときからアシナガバチに刺されていました。蜂に刺されるという認識はあったのですが、なぜかそのときは蜂を素手で捕まえられると思い込み、三つ葉の影にいた蜂にそーっと手をかぶせて「捕まえた」と思ったら蜂のお尻がニョキっと伸びて小指をさされたのが保育園のときでした。小学生の時には近所の友達5、6人で蜂の巣に水をかけていたら蜂たちが怒ってみんなに襲いかかってきて見事にみんなが刺されました。泣きながら家に帰ってきたら家族の人に心配され、姉がなんで刺されたのかを近所の人に聞きに行ったらしく、事の成り行きを両親に話していましたが、自分が何を行ったのかは覚えていないのですがとりとめも無い言い訳をしていました。次の日からそのときの5、6人の顔や手が腫れていて近所の笑いのネタにされていました。しかし、刺された場所が米神と首筋の2か所でギリギリ急所を外れていました。誰も重傷でなくて良かったです。中学のときは、自転車で坂道を気持ち良く走っていたら突然チクリと痛みを感じて家へ戻って鏡を見たら首筋に蜂に刺された後があり次第に腫れてきました。
 
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12ちょこっと痛いはなし その6 「初骨折」
 
厄年を迎えた頃に、知人たちと一泊でスキーに行った時のことです。年のはなれた若者たちと一緒にスノーボードに挑戦しました。最初はこけてばかりで立つのもやっとのぎこちないボードで、転ぶたびに手とお尻を着いてしまい、何度も何度も転ぶうちに手首が痛くなる程でした。スキーはそこそこ滑れていたのでなんとか練習の成果が出て少し滑れるようになり、なだらかな斜面で気持ち良く滑っていたらバランスを崩し転びそうになったので手を着こうとしましたが、手首が痛かったので両手を胸の位置に持ってきて手首をかばうように転んだ瞬間、その手が胸を圧迫し胸に激痛が走りました。しばらく息をするのも大変でしたが次第に痛みも治まり多少の痛みをこらえつつスノーボードを終了しました。休憩時にやっぱり大きく息をすったり笑ったりすると胸が痛くて一緒にいた友達が心配してくれました。その後スキーをレンタルして滑り出しました。ボードで上手く滑れなかった分スキーでは結構スイスイ滑れたので気持ち良かったです。帰りにみんなで夕食をすることになりビールを飲んでいましたが、やはり胸の痛みが治まらず、翌日病院に行くことをみなさんんと約束をして帰宅しました。そして、病院にてレントゲンなどの検査をした結果、六軟骨骨折と診断され、ギブスができないのでコルセットを巻くようにいわれてその日から約3週間は、コルセット生活でした。これが、人生初の骨折でした。
 
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13ちょこっと痛いはなし その7 「火傷」
 
小学生の低学年の頃だと思います。幼なじみと二人で3連発の小さな打ち上げ花火を親に内緒でしていました。まだ明るいうちで花火の奇麗さは分からずただ、火をつけて打ち上げる音だけを楽しんでいました。花火を土で固め、筒の先に火のついたマッチを入れるタイプの花火だったのですが、明るいときの炎は見えづらく、着火したのか分からなかったのでそーっと覗いてしまったのです。その瞬間、打ち上げ花火が自分の目に飛び込んできたのです。熱いやら痛いやらで慌てて家に帰り何度も水道で目を洗いました。目は真っ赤に充血しているので両親は心配して当然なのですが、子どもだけで花火をしていたことがばれると嫌だったので砂が目に入って洗ったと偽りました。眼球の瞳を反れて白い部分が茶色に残ってしまいました。今思えば大変だったと寒気がします。この話は、未だに親には言っていません。
 
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14写真
 
就職をしてから業務上、カメラマンの助手のような仕事をすることもありました。何年もお手伝いをしているうちに、なんとなく写真の面白さも分かるようになり自分でも写真を撮るようになりました。シャッタースピード、露出、レンズの特性、光と影のコントラストなど、いろいろな条件の下で自分らしい写真が撮れたときは嬉しいものです。しかし、様々な条件を満たした上にトリミングが上手にできた時にはさらに嬉しく、自分のお気に入りの一枚が残るわけです。最初は、見よう見まねで撮っていた写真ですが、やはり、プロのカメラマンが撮る構図はひと際優れています。人物でも建物でも自然の風景でも撮影する人によって違うことは分かりますが、それぞれどれも写真に物語が見えるのは自分だけでしょうか?カメラ雑誌や映像に関する雑誌などを見ても自分の好みの写真を見てしまいます。長年そう言ったことに携わってきて一枚の写真では表現できない映像の面白さを教えてくれたのがテレビで放映されている「世界遺産」でした。風景にしても空の色、大地の色、そしてその配分量、構図がどのシーンで停止しても上手くバランスが取れていると思います。聞けば、30分の放映に約2年もの歳月を掛けて撮影をしていたりそれを編集するにあたっては慎重なカットを選び抜きナレーションを付ける作業は、とても大変なことだと思います。しかし、それだけの手間ひまを掛けただけのことはあって実にすばらしい仕上がりになっており、ぼーっと見るにはもったいない。ビデオに録画して何回も見ている程です。自分の写真もそんな世界遺産のカメラマンのカメラワークの影響を受けているはずなんですが、やはり経験値が少なくいい写真はなかなか撮れません。それでも、写真を撮ることは好きです。これも十人十色の写真があって当然だと思うし、どの写真が一番と言うこともなく自分らしさが出ている写真ならそれが何よりだと思います。
 
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15海泉倶楽部の芽
 
流木を使っての照明器具・写真立てなどの町の雑貨屋さんで見かける作品を作りはじめました。材料のほとんどが海岸に漂着した流木、ガラス片、浜砂、貝殻などの素材です。加工に必要な工具や部品などは買ってきますが、出来上がりの風合いは自然をテーマに作っています。最初の頃はどんな道具でどうすれば作れるのか分からず、素材の接合が上手くできなくて道具も上手く使えない状態でした。そこで、まず自分ができることから作ってみることにしてから徐々にできるようになりました。何個も作るたびに細かいことが発見できましたが、描きためておいたスケッチブックには、まだまだ作りたいものがたっぷりあります。さらに、技術を身につけるためにはもっと多くの作品を作り続けたいと思います。 いろいろ作っては友人に貰ってもらいましたが、そんなに貰っても困るだろうと思い、知り合いのお店屋さんに相談してみたところ店内に置いてもらえることになりました。その作品は今思えば完成品ではなかったが、やがて店内の隅に追いやられホコリをかぶり足下に置かれた作品は足にぶつかり壊れたままで放置されていました。その後、ほかの店にも相談に行き置いてもらい、初めて自分の作品がお金に代わったことを嬉しく思いました。店内を見回しその中で気に入ってくれた作品を買うことは、きっと持ち帰った後でも大切にしてくれるだろうと思い、それも嬉しかったです。実際にはお客さんが家で自分の作品をどんな扱いをしているのかは分かりません。ひょっとしたら、すでに捨てられているかもしれません。それを思うと作る意欲が薄れてしまいます。 ある日、80歳を過ぎたおじいさんと商売の話をする機会に恵まれました。そこで、自分の作品に対する思い入れを話したところ、「そんな、綺麗事を言っていたのでは買ってもらえない。物を売って生活をするには、買ってもらって収入があり衣食住につながる。」と、教えられました。全くその通りだと痛感しました。楽しいはずの作品作りが商売に目的が代わってしまったことに気付き、改めて作品作りに対する再認識をしました。 またしても、ここで出てきたキーワードの「経験」が成長につながりました。人より多く作り、人より多く売ってその結果がどうあれ、廃品で作品を作る楽しさをより楽しむことを考え、一人でも多くの人に見てもらうことを喜びに変えていきたいと思います。雑貨のカタログやインテリアの雑誌を見て参考にして、想像し好きな素材から自分らしい作品をどうやって作るかを考えるのも楽しいと思います。
 
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16流木
 
工作に使う素材を厚めに最初に行ったのが子どもの頃から遊んでいた海岸でした。その砂浜にはいろいろなものが漂着していて、中には軟式野球のボールが幾つか転がっていて、流木をバットの変わりに友達とノックで遊んでいたら地元のおじさんがやってきて、「そのボールはバキュームカーの栓だぞ。」と一言。みんなの目が点になり、その場で固まってしまいました。海水と波で洗われて汚れていないはずなのに、その用途を耳にしてからはその後誰も海岸の軟式ボールに触れなくなり、野球ゲームはその日で終了。漂流物はほかにも様々なものがありました。どこで死んだのか分からない50センチを超すような大きな魚、フネといわれるイカの中骨、形の歪な角の取れた軽石、軟式ボールに匹敵するイチヂクカンチョウ、お菓子のオマケなど、明らかにそれらはゴミでした。どこかで人が捨てたゴミが全国各地の海岸に漂着しています。それは未だに絶えることなく捨てられ、漂っています。近年、海岸のゴミを拾うボランティアの人たちも増えて、ゴミの少ない海岸へと変わりつつあります。ゴミ拾いのついでに流木までが集められ燃やされてしまうことも時折あります。それはそれで、何の障害物もない美しい砂浜に見ることができますが、波打ち際に打ち上げられた腐った海藻には誰も手を出しません。何がゴミかという境界線は誰が決めているのでしょう。時には流木を若い子たちが海岸で遊ぶのに焚火に去れていますが、それも流木の使い道でもあるのでしょう。流木が海上での障害物となる場合もあるので処分されるのも仕方ありません。 山で崩れた斜面に耐えられず川に落下し、流れに乗って岩にぶつかり、こすれて洗われ、やがて海に出て半面ずつ太陽に照らされては濡れての繰り返しを何日も何年も続けていくうちに表面が滑らかなつるんとした肌になった流木は、自分にとっては魅力的であり、ここまで流れ着いた数年、あるいは何百年かもしれない歳月を思うと感動してしまいます。海の潮と陽と波にもまれ続けてきた流木は美しいと思います。
 
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17ガラスのかけら
 
漂着物の中で魅力的なものが、割れたガラス瓶のかけらです。これも流木と同じで何年もの間砂や砂利などに削られ白っぽく変色し、角が取れて何とも手触りの良いガラスのかけらです。シーグラスとか、ビーチグラスと呼ばれるそのガラス片は子どもの頃から砂浜に落ちていることは知っていました。生活ゴミには違いはないけれど何か魅力を感じてしまいます。片手に持てるくらい拾い集めてみると、小さくて奇麗で、砂や砂利の中から見つけると得した気分にさせてくれます。ボランティアの人たちが海岸清掃をする時にプラスチックの容器などのゴミや流木などは処分されますが、ガラス片を拾って処分されたとは耳にしたことがありません。多くの人はガラス片を自然の一部だと思っているのか、それとも拾っても処分に困るのでそっとしてあるのかは分かりませんが、自分にとってはありがたいことです。ガラス片を拾っては持ち帰り、洗って乾かして色分けして大きさで分けてあります。流木や貝殻などと組み合わせて照明器具を工作しています。 この話は、まだ工作を始めたころでその後いろんな方々を通してガラスについてうかがいました。そんな内容は別のコーナーで紹介していますので、そちらを見てください。
 
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18木下幸男さんへ
 
今、私は52歳です。この52年間でいろいろな人との出会いがありました。その中でも一番影響を与えてくれた人が木下幸男さんでした。創作活動をしているかたわら、収入源であるデザインの仕事のからみで打ち合わせをするようになり、お互い何か引きつけられるものを持っていました。 木下さんはミルキーコークという会社を30年という長い間続けてきましたが諸事情により会社を閉めることになりました。焼きものでは、個展をすれば何百万円と売れ、完売することも珍しくない程の才能があり、雑貨の製作販売に関しては現在の日本の雑貨業界の先駆者ともいえる人物でした。そのたぐいまれな才能で次々とヒット商品を生み出して、売上も右肩上がりの成績で時代の流れと物の流れを読む才能もあり、大手企業の顧問まですることになり、日本各地から引っ張りだこの存在でした。その忙しい中、店舗や住宅のデザインまでやり遂げていました。いつ、休んでいたのか、睡眠はとっていたのか分かりません。出会ってからは街のイベントのプランを立て、地元の若い人たちに活力とノウハウを一生懸命教えていました。生まれ育った町をなんとか活気づけたいという信念で各種イベントの細部までシナリオを描き実現させてきました。その一部でデザインの部分を担当させてもらい、楽しい仕事ができました。多才な能力を持っている方で、右脳と左脳がいつも稼働している方でした。また、その稼働率も高く、行動力も同様に高い方でした。 会社を閉めるころ、同じく私も30年勤めてきた会社を退職して出会えたのは必然だったと思います。ある日、本人から信じられないことを告げられました。体調不良もあって医者に行ったところ、胃ガンがが発覚されたということでした。私も半信半疑で素直に受け入れることができない日々が続きました。木下さんが胃ガンで亡くなるとは思えませんでした。やがてその発病は現実となり、入院して抗がん剤治療が始まりました。テレビや映画で見る闘病患者さんのように副作用の髪が抜けるとか痛みとかで辛い闘病生活になると皆さんの心配をよそに、とてもガン患者とは思えない元気で笑いの絶えない病室でした。私はほぼ毎日のように病室に通い仕事の打ち合わせや雑談をしていました。時には木下さんが机で絵を描き、私がベッドで横になっている場面も数回ありました。部屋に入ってきた看護師さんも驚くことなく楽しい日々でした。ご本人さんは相変わらず元気な患者さんでしたので時間はたっぷりありました。建築デザイン、焼きもののスケッチ、雑貨の新企画、絵も描いていました。抗がん剤の日程で入退院を繰り返すので、退院する度に神戸で個展をしたり、岐阜の高山へ温泉旅行へ行きました。その中でも驚いたのが、木下さんはどんなに忙しくても飛行機を使わなかったのに、初めての海外旅行で韓国へも行けるほどの元気なガン患者でした。 さらに驚いたのが、何度かの抗がん剤治療で胃袋の腫瘍と転移していた肝臓の腫瘍がウソのようにきれいに治っていたのです。そんな木下さんを見ていると本当にガンだったのか疑ってもいいんじゃないかと思えて、「ガンもどき」だったんじゃないの?と病室で爆笑でした。年末におでんパーティーをして「がんもどき」も入れようと話しをしていました。後に聞いたのですがガンのレベルがあって、発覚時はステージ4という余命数日という末期ガンだったそうです。本人も途中まで知らず奥さんだけが知っていた事でした。病院の先生方も驚きの快復力と生命力は多才な才能を持つ人の能力ではないかとつくづく思いました。 発覚から半年が経ったころ、治療の疲れが出たのか内臓がきれいになったのに体力が落ち始め、楽しみにしていた年末のおでんパーティーも途中で帰ることになり、ちょっと心配でしたがなんといっても「奇跡の男」と病院でも言われた人だから正月にゆっくり休めば復活してくると思っていました。年が明け、次の退院では身体がだるそうでしたがいつものように昼飯を食べに行き、工房の二階で打ち合わせをする日々が続きました。右腕に痛みがあるというので、病院でレントゲンを撮り検査をしたところ、骨が溶けていました。内臓は治っていたのに骨に移っていたとは思いませんでした。ある人は、「骨に移ったらダメだよ」と言われましたが「奇跡の男」は大丈夫と思い込むようにしていました。 冬が終わる3月の初旬には脚にも痛みがあり、思うように動けないので脚のリハビリを手伝ったこともありました。雑貨の新商品の打ち合わせで名古屋へ行って昼飯を食べていたら木下さんの奥さんから電話。「危ないから早く来てください。他の人にも連絡をお願いします。」と。まさかの言葉に何も考えられませんでした。急いで車を走らせ、「また復活するよな」と言いながらなんとか運転していた。病室に入ったらすでに家族はいて、木下さんの変わりようにショックを受けました。病室に入っていつものように「ヤッホー」と半笑いで言ったものの、本人からの返答が別人でした。それ以降ただ見守ることしかできませんでした。薬のせいで意識が薄れる中、木下さんは連絡した人たちに一生懸命応えていました。やがて、呼吸をするのも辛そうな状態になり、汗をかき手が冷たくなってきました。木下さんの意識はほとんど無いですが両目を見開き、苦しそうに息をしていました。誰ひとり帰る人もなく、病室は温かく皆さんが木下さんの復活を祈っていました。私にできることを考えて、いつも手が熱い私は木下さんの冷たい手を握り、少しでも暖まってもらうことしかできませんでした。 奥さんから連絡をいただいたのが昼でした。そして夜になり苦しむ木下さんを見守るうちに外は白くなり夜が明けました。それでも復活すると希望を抱きながら、朝8時に一旦家に帰り二日ぶりのシャワーを急いで浴びて病院に戻る支度をしていたら、電話がかかってきました。戻るついでに何かを買っていくのかと思って電話にでると、鳴き声の「早く来て」の一言だった。まさかの20分間です。一晩見守って、ほんの20分病室を抜けたその間に木下さんは旅立ってしまいました。その時、その場に居られなかった自分がくやしくて仕方なく、病室に向かう途中で手続きに向かう悲しむ家族の人たちとすれ違い、走って階段を4回まで駆け上がりました。病室のドアは開いたままで、廊下に二人、病室に二人。ブラインドを開けたその部屋は朝日が差し込む明るい部屋でした。そこには、さっきまで苦しんでいた木下さんはいません。見開いていた目も閉じて辛い呼吸もしていない眠っているような木下さんがいました。ゆっくり近くに寄りベッドの横に立ち、二度と聞けない声を思い出しながら泪をながしました。 朝の20分間は、私にその時を見せなかった木下さんの最期の優しさと受け止められるようになったのは葬儀が終わってからでした。木下さんと出会ってからの3年間を楽しく過ごせたことに感謝します。ありがとうございました。大きな存在を失ってからは、いろいろなことに対する答えが見えず日々苦悩しています。これも木下さんが残してくれたことの一つでしょうか?「自分で乗り越える力を付けなさい」と言うことですね、木下さん。私の好きな言葉で「この世が天国さ」がありますが、本物の天国はいかがでしょうか?今ごろは新しい企画を立てて楽しんでいるんでしょうね。デザイナーはまだこの世に居ますよ。この世の天国を見つけるまで、まだ時間がかかりそうですのであと数十年待っててください。じゃあね、おじさん。またね。
 
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19ちょこっと痛いはなし その8 「蜂刺され、再び」
 
このコーナーでの「ちょこっと痛いはなし その5」でも書いてあるアシナガバチに再会しちゃいました。紹介してあるとおり、子どもころに何度も蜂に刺されて以来十数年ぶりに刺されました。それは、畑のスモモの収穫をしている時でした。蜂が数匹飛んでいるのは分かっていましたが、こちらから仕掛けなければ大丈夫と、経験上知っていましたので、あえて手を出さずにスモモを採っていたら、なんと、樹の枝に蜂の巣があったことに気付かず、巣の近くで一刺しもらっちゃいました。懐かしいというか、子どものころに比べて痛みが少ない気がしました。最初は蚊に刺されたような膨らみだったので家に戻りムヒを塗ってみたけど徐々に腫れ増してきました。そうだ、アロエがよいかもと、庭のアロエを塗り込んで包帯を巻いていました。 その後さらに腫れあがり、ゴム手袋を膨らませたような手になりましたが、今までのようにたかが蜂に刺されたくらい放っておけば治ると思っていましたら、「医者に行った方がいいよ」と何人もの人に言われまして、蜂刺されで医者に行くことに抵抗がありましたが皆さんの心配を無視してはと思い、医者に行くことにしました。何科に行けばよいのか分からなかったので、かかりつけの医者に電話してみたら「そのままで大丈夫ですよ。気分が悪くなったら来てください。」でした。やっぱりね~。行かないわけにもいかず、看護師の姪っ子に電話で聞いてみたら「皮膚科だよ」とのことでした。皮膚科医ってどこにあるの?と思っていたら最近娘が行っていたことを思い出し、そこへ行ってみました。「いつ刺されましたか?」「昨日の昼ころです。」「もっと早く来てください」と言うことでした。近ごろでは…注射に飲み薬と塗り薬の三種の神器みたいな治療にびっくりしました。しかも、一日で治る強い注射と4日で治す注射があるではありませんか。迷わず4日でお願いしました。 初夏の6月は蜂さんも活発のようで、患者さんの一人に10分前に刺された若いお母さんが家事も途中で子どもを家に置いたまま飛び込んできてました。皆さん知ってるんだ。蜂刺されの三種の神器。6月は蜂さんも忙しい時期のようで気が立っているのでしょうね。
 
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20ちょこっと痛いはなし その9 「骨折part2」
 
家の生ゴミは畑に埋めることになっていて、当時は私の担当でした。家からバケツに入った生ゴミを持って畑まで歩いて行きます。雨上がりの畑は滑りやすいのでぬかるみ防止の古いじゅうたんが敷いてあります。それでも滑ることは知っていましたので慎重に歩いたつもりがズルっと滑り手に持つ生ゴミ入りのバケツを傾けないように態勢を保ち手をつかないで倒れ込みましたが、その下にはじゅうたんがはがれないように置いてあるレンガあり、脇を直撃。そこそこ痛みはありましたが我慢して任務を遂行しました。スコップで畑に穴を掘り生ゴミを埋めました。さすがに息が上がり呼吸をすると脇が痛みました。家に帰る途中、歩くにつれて呼吸の度に痛みを感じ、あの時の症状に間違いなく、ろっ骨にヒビです。医者に行ってもコルセットを巻くだけなので、あの時買ったのがまだ残してあったから、とりあえず巻いておき、心配することなく一ヶ月で治りました。やっぱり、経験っていうのは助かりますね。
 
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21ちょこっと痛いはなし その10 「骨折part3」
 
地元の地域行事の役員をやっています。春の祭礼、夏の盆踊り、年末には大晦日に神社でお祓いを受けたりします。行事の中でも秋の運動会は出場者の皆さんと練習をするくらい熱心です。当時私は体育委員長をやっていまして、練習では道具や器具の準備をしたりします。皆さんが一生懸命投げた玉をカゴから取り出すためにポールを倒す時に私がカゴを押さえようと向かったときに降りてきたカゴに右手が接触しました。突き指かなと思い、右手人差し指を引っ張ったり、揉んでみたりして痛みを逃がしていました。捻挫と思い家に帰ってから湿布薬を貼り、とりあえずの治療で済ませていました。二日ほどして親戚の集まりがあり、紫色に腫れ上がった右手を看護師の姪っ子に診せたところ、「折れとるよ。お医者さんへ行っといでぇ。」だって。確かに指を曲げると痛いし紫色の腫れ上がった手もすごかったような。 翌日、整形外科に行きレントゲンの写真を見てびっくり。右手の人差し指の2箇所にキズがありました。さすが看護師さん。見ただけで分かるものですね。その後アルミの板を指に沿うように曲げて包帯でぐるぐる巻きにされました。怪我をすると日々の生活が不便なのは知っているので気にもしませんでした。骨の怪我となると一ヶ月はかかると知っていましたが、間接を固定した事が無く包帯が取れるころには間接が固まり、指が曲がりません。それからは、指を曲げるリハビリの毎日で、お風呂でゆっくり曲げる練習をすること一ヶ月。それでも指は思うように曲がらず、少し無理をしたせいか指がまたまた紫色になっちゃいました。医者に診てもらってさらに5ヶ月が過ぎ、そこそこ指も曲がるようになりましたが、さらに3ヶ月が経ち、ようやく拳を握れるようになりました。これも一つの経験ですね。
 
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22ちょこっと痛いはなし その11 「骨折part4」
 
日常生活で何でもないのにヒザをぶつけたり、小さなトゲが刺さったりと小さなケガはつきないものです。何度も繰り返している動作の中で、車のドアの開け閉めもその一つですが、なぜこのようなことが起こったのか自分でも分かりませんでした。 家の駐車場に車を止めてドアを開け、降りて右手でドアを閉めたときになぜか左手の小指のほんの先っぽを挟んでしまいました。あと1㎝ずれていればいつものようにドアは閉まっていたのです。挟んだ瞬間はさほど痛みはなかったのでよかった。と、思ったら、5秒くらいしたら激痛が走り、今まで経験したことのない痛みが指先だけではなく、頭まで痛くなり始め、イスで座って右手で小指を握り、痛みをやり過ごそうと必死でした。次に起きたことは、小指が痛いはずの左手全体が痛くなりました。驚いたことに、なぜか握っていた右手が痛み始めたのです。それから20分くらいイスでうずくまり、ようやく痛みに慣れたころ、そっと指先を見てみると爪の先が白くなって冷たくなっていました。痛みに耐えながらこのままではいけないと思い、市民病院の時間外急患に行くことを決めました。早速、レントゲンを撮り結果を見たら指先にヒビが走っていました。そのころ爪は赤くなり、曲げることもできない状態でした。とりあえずの治療もなく、塗り薬と痛み止めの飲み薬をいただき、ぶつけないようにガーゼを当てて包帯でぐるぐる巻きにして保護しました。 数日が経ち、指先の爪は徐々に黒くなり、さらに数日が経ったころには爪全体が黒くなりました。当初の痛みはないですが、やはり何かに触れると痛いです。その後ひと月、ふた月と過ぎ、物を持つ手が自然に小指を立てていたのです。しかも爪は真っ黒で、まるで女性がオシャレしているように見えるし、黒爪の小指を立てて持つグラスはまるでオカマじゃないですか。残念ながら無意識に小指をかばっているので直りませんでした。 さらに、2ヶ月が経つと爪も伸びてきて、爪切りで慎重に切っていると爪の左半分がはがれ掛けてきました。そうなると日常でそれを引っかけたりするのです。その度に痛くてたまらない日々が続き、パカパカと開く爪を思い切って切り落として引っかかりを取りました。爪のない指先は触るだけで痛いものです。残りの爪はまだはがれそうもなく、しばらくむき出しの指での生活が続き、全部はがれたのが約2ヶ月でした。そのころには新しい爪が伸びてきて、グニャグニャの爪が波打っていました。すべてがきれいになったのは指を挟んで半年を過ぎていました。
 
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23隕石?
 
海岸へ漂着物をいただきに行くようになって10年は経ちます。中には珍しい物も数々ありました。キャッシュカードを見つけたときは、どうしてよいのか分からなかったので二つ折りにして砂浜深く埋めてきました。大雨で川から海へと流された大きな鯉や亀の屍。生々しい女性の下着、粗大ゴミのテレビ、タイヤ、家具などがありました。 いつものように砂浜で目を皿のようにして、なみのこを探していると茶色い固まりがあり、見つけたときは固まったウンコかと思い、やり過ごしていました。往復して帰りにまたそのウンコを見てしまい、興味本位で近くで見てやろうと近づき、流木でツンツンしてみたら意外と堅かったので、そっと手を伸ばして触れてみました。表面が凸凹した石でした。石にしてはサビのような茶色で、小さな球体がはまっていたかのような穴がいくつかあって、それがウンコではないと思って手にとってみたら予想以上に重かったのです。10㎝を超える石なのか鉄なのか分からないそれは、とりあえず漂着物コレクションとして持ち帰ることにしました。 改めてじっくり見ていて、ふと思いついたのが流れ星でした。インターネットで「隕石」を検索してみたら同様の写真が次々と出てくるではありませんか。これはなんとも珍客がわが家に来ました。 その後友人に話してみたところ、どこかで調べてもらおうかと話しが盛り上がりました。が、調べてもらうとそのまま返ってこなくて、イミテーションが来るんじゃないの?う~ん、どうしよう?という結果に終わりました。検索の結果は、地球に落ちた直後は素手で触れてはいけないとありましたが、古い隕石は中に含まれる鉄が錆びだしてくるとありました。わが家の隕石は古い物のようです。さほど価値のない物のようだからマイインセキとしてコレクションの一つとさせていただきます。 いつか、隕石に詳しい方とご縁がありましたら相談することにします。
 
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24バクダン
 
流木工房としていろいろものづくりをしてきました。素材との出会いもありまして金属と流木の組み合わせも楽しく作れました。そんな私がサビた鉄を探しているという噂を聞いた人が「うちにもあるから取りに来い」ということで、木造の工場へおじゃましました。確かにサビた鉄がゴロゴロとありました。いずれ処分されるものばかりですが、私にとってはお宝です。遠慮無しで車に積み込み終わってご主人といっぷくしていたら、突然「おっ、まっちゃん。ええものがあるで、もってけ。」と別の棟から持って来て、無造作に置かれた物が砲弾でした。それ以外の何物でもありませんでした。間違いなく不発弾というやつです。 砲弾にまつわる話を聞かせてもらい、ご主人が小さな時から家にあって床の間に飾られていたこともある代物で、現在は納屋の片隅でホコリをかぶり土やサビでイイ感じの鉄の塊になっていました。長年ご主人の家で保管?されていたので今さら爆発はしないだろうと思い、こちらも遠慮無しにいただくことになりました。 あまりにも汚れていたので自宅の駐車場で水を掛け、ブラシで汚れを落とし丁寧に雑巾で拭き、車の荷台へ乗せて置いたのです。夏の日差しが熱く、車内の温度も上がるので鉄の塊も熱くなり扱いづらいので、とりあえず倉庫に保管していました。友人からもらったUSARMYとステンシルで書かれた木箱があり、ピッタリのサイズだったので新聞紙を敷いて入れておきました。 会社が休みで家にいた息子さんに「ちょっとイイものがあるから見せてあげる」と二人で倉庫へ行き、木箱のフタを開けて、「何だか分かる?」の質問に息子さんも分かったようです。「本物だよ」と言うと、さすが男の子です。顔がほころんでいました。こんな体験は滅多にないからその砲弾を持たせてあげました。ただし、「落とさないように慎重に」と言うと一瞬真顔になりましたが、やっぱり笑いを隠せませんでした。そっと、箱の中に戻して倉庫を後にしました。 それから数日が経ち、テレビのニュースで東京で不発弾が見つかったと報じられ、自衛隊が処理している映像を見たときに、もしかしてヤバイ?と思ってインターネットで不発弾を検索したところ、同様の砲弾が次々とあって、処理する画像もいくつかあり、見れば見るほど大変なモノをいただいてしまったと思いました。翌日、いただいたご主人を訪ね、その旨を話したところご主人も気にしていたそうです。あまりにもタイムリーなことでご主人は「もうちょっと間を空けてから警察に連絡する」と言うことになり、その砲弾を倉庫から工場まで運ぶことになりました。 いただいたときは無造作に車に積み込んでいた私ですが、返す時は極めて慎重に扱い、砲弾の先に新聞紙でさらに固定してUSARMYの箱ごと工場へ持ち込みました。それでもご主人と二人で、何キロくらいあるだろう?と言って、工場にあった体重計で計ったところ14kg。さすがに重かったです。気のせいか最初に手にしたときよりも重くなっていたような気がしました。 その数日後ご主人は警察に連絡をして自衛隊の方も来られて持って行きました。間違いなく不発弾だったのですが信管がサビていて動かなかったので大丈夫でした。と言われましても、その先っぽを丁寧に洗っていた私ですが…幸いにも事なきを得たバクダン騒動は何事もなくフェードアウトしました。
 
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25メキシコへ
 
流木工房として参加した彫刻展へ出品するために魚の形をした照明を作ることになりました。まずは、試作で120㎝の魚を流木となみのこで作ってみました。無骨ながらそれなりの作品に仕上がりました。ただ、出品にはもっと大きな作品に挑戦する予定でした。それで、スケッチを描き新聞紙を何枚も広げてサイズを検討したところ、2.4mの魚に決定しました。 広げた新聞紙をセロテープでつなぎ合わせ、えんぴつでスケッチを描きました。倉庫へ移動して広げたスケッチに沿って流木を置き、接合して半ペラの魚ができました。もう半ペラも、と思いましたがかなりの重量で、支えることが難しいのでレリーフとして作ることにしました。骨組みが完成したときにはレリーフの壁になる部分を友人の木工職人に依頼をしました。骨組みになみのこを接着する作業に入り、一つ目のなみのこを貼って改めて作品の大きさを感じました。その後気の遠くなる作業は昼夜を掛けて延々と続き、なみのこ全部を貼り終えたのは1ヶ月を過ぎていました。そして、木工職人ももとへ魚を運び接合して完成となりました。 その作品は無事に納期に間に合い、お願いしていた飲食店のロビーに無事設置することができました。1ヶ月の展示期間中には多くの方々に見ていただいたと思います。作品の名前は「マダカ」です。私の好きな釣り魚の名前です。一般には「スズキ」と呼ばれ鮨ネタでも有名な魚です。この魚は出世魚の一種で大きくなるにつれて名前が変わるのです。最初に試作で作った無骨な魚の名前は「セイゴ」で、今回作った2.4mの魚が「セイゴ」。そして、いつか3.6mの「スズキ」を作る予定です。さらに、7mの「ジンベエザメ」を縁のある沖縄で作る計画です。次に大きな魚と言えば「クジラ」を思いつきました。クジラと言えば中米のバハカリフォルニアが産卵に訪れる有名な海でもあります。 と言うことで、バハカリフォルニアで15mの「ザトウクジラ」を流木となみのこを現地調達して作ってみたいという夢が生まれたのです。メキシコへ行き流木工房海泉倶楽部の展示のために、今からスペイン語の勉強をする予定です。 私にはアメリカのサンフランシスコから来ている陶芸家の友人がいます。出会ってから数年が経ちますがある日の会話の中で、彼は一言、「松本さんはメキシコのどこで生まれたのですか?」と、「???」衝撃的な質問に「ニッポンデス」と片言の日本語で応えてしまいました。外国人からは私が日本人には見えなかったのでしょうか?いつもペラペラの日本語をしゃべっていて、一言もスペイン語をしゃべったことがないのに、なぜ彼は私をメキシコ人だと思ったのかは未だに分かりません。 木下さんの店の一画で土日は雑貨店をお手伝いしています。普段着で帆前掛けの出で立ちで接客をしています。隣にはおいしいで評判のパン屋さんもありまして、そこの店員さんから一言、「さきほど来られたお客さんが、外にいる雑貨店の男性は日本人ですか?」「話しかけても大丈夫ですか?」と聞かれたそうです。メキシコのお隣のアメリカ人に間違われるのはまだ分かります。と言っておきますが、こてこての日本人から外国人と間違われていたとは思いませんでした。何人に見えたのでしょうか?結局そのお客さんとは話ができずじまいでしたが、他にも私が外国人と思っている方がいるということですよね。 バハカリフォルニアにあこがれ、メキシコ人に間違われ、謎の外国人にも間違われる私ですが、イヤではありません。むしろ、嬉しかったりもします。将来メキシコへ行きザトウクジラを作るとき、現地に馴染めるのでOKとします。 あれからパン屋さんの別の店員さんがディズニーランドのお土産で「松本さんしか似合わないと思って買ってきました」と、麦わらのソンブレラを買ってきてくれました。おいおい、俺の夢を膨らませてくれるのか?それと、スペイン語は難しいですか?
 
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26虫垂炎
 
55歳にして虫垂炎になりました。2月18日は娘の誕生日。とは関係ないですが、土曜日の昼ころから軽い腹痛が始まり夕方から時折激痛が襲ってくるようになり、落ち着く体勢を探しては我慢をしていました。 夜は地元の役員会があり、腹に違和感がありつつうどんをいただき、祭礼準備も終わり楽しみにしていた二次会に参加しました。店でも落ち着く体勢を探しながら生ビールをいただき、名物のネギマを美味しくいただいていましたが、やはり腹痛も限界を感じて早々に退散です。帰宅後、風呂も入らず布団でうずくまり、痛みを和らげる体勢で就寝につくも同じ体勢も続かず寝返りさえも腹に響くほどになり、時には布団に座ったり立ってみたりと眠れぬ夜を過ごしました。翌日の日曜日は歩くだけでも腹に響く状態で、まるで能のようにすり足で歩く有様ですがこの日に限って打合せがあり、坂道の多い道のりを能で歩いていました。また、天気も陽気も良くお客さんが多く来ていただき、慣れない体勢で包装したり接客でした。 また眠れぬ夜がくると思うと憂鬱でしたがこの日は意外に眠れて気持ちよく朝を迎えました。もしかしてもう治るのかと期待しつつ、かかりつけの内科に予約を入れました。10:30からなのでそれまでに手配や打合せを済ませ医者に行き40分遅れでようやく診察が始まり先生の後ろには幼馴染の看護婦さん。触診が始まり『あ~~』と先生。隣の看護婦さんも『あ~~』と言葉にならず、『まず盲腸に間違いないですね。よく我慢できましたね。これ以上我慢すると破裂して大変な事になりますよ。』と。土曜日からの経緯をかいつまんで説明したら、今度は『あ~あっ』と返されました。『ダメだよ‼︎破裂したら一か月は入院だよ‼︎』と幼馴染の看護婦さん。 ご心配をおかけした皆さんに連絡をとり、家でおとなしく療養する事にしました。 忘れないための記録として、この痛みを例えるなら腹一杯にメシを食べた直後に100メートルを全速力で走った後に襲ってくる腹痛に似ています。もしくは、もうこれ以上は食べれないと思った後の〆のラーメンを完食した時の腹痛の感じです。どちらもやった事ないですが、似たような事はあるので大げさに表すならこんな感じです。とにかく痛いと言うしかありませんでした。
 
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27海と陸との境界線
 
波打ち際、渚…。そこは、海に生きる者たちと陸地で生きる者たちとの境界線と言えるでしょう。 数年間、自分でも分からないですが海に入る事への抵抗?恐怖?でもなく、魚は陸地では生きられないように人は海の中では生きられないと感じるようになり、その生息領域をお互い侵してはいけないという感覚が目覚めた?どう説明してよいのか…。 生命の起源は海の中にあり、何億年もかけて海から陸へ、そして空まで生息領域を拡大した生命達はそのバランスを保ってきました。その中で人は知恵により海へ空へ、更には宇宙へと領域を拡大した事は事実であり否定する事もできません。宇宙には星があり、空には鳥が飛び、海には魚が泳いでいて、陸地では植物が育ち、花が咲き、虫が蜜を吸い、動物が生きている。今では極当たり前の事だですが…当たり前過ぎて見えない物事があるのうな気がします。 そんなモヤモヤを抱く中、波打ち際で足を浸かる事すらできなくなりました。水に顔をつけれないとかシャワーが苦手とかの水に対する恐怖心ではなく例えるなら、知らないお宅の敷地に勝手に入るような感覚に近いでしょうか。 どうしてこんな感じになったのか?いつになったら海に入れるのか?分かりません。
 
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28西部劇
 
小学5年生のころ、テレビでは毎日にように映画の放映がありました。中でも衝撃的だったのが西部劇です。「荒野の七人」を初めて見たときは鳥肌が立つほどでした。以来、西部劇の熱に侵され新聞のテレビ欄で西部劇をチェックする毎日でした。 TheGood,theBad,andtheUgly。邦題『続夕陽のガンマン』は、私が5歳の時に作られた西部劇。生まれる前の出来事は歴史事のように思えるが、生まれてからの出来事に関しては親近感があります。あの時遠く離れたスペインでは、イーストウッドがポンチョを纏って51NAVYを撃っていた。同じ時間を共有していたと言う事になり、鳥肌が立つ思いです。 もちろんレプリカですが、あのポンチョが手元にあり、時折纏っては左手でポンチョの端を持ち右上にひるがえして銃を撃ち、そっとポンチョ戻すと言う動作。今までに何度やった事か…。 初めて見たのはテレビの日曜洋画劇場でした。その時の緊張感が忘れられず、再放送を知った時に思いついたのがカセットテープに録音すれば何度も聴けると。120分テープに番組一本まる録りしてからは、ヘッドホンから流れる台詞とサウンドトラックを目を閉じたまま回想していました。今ではパソコンやスマホでどこでもあのシーンを見ることができて便利な世の中になりましたが、時代が変わっても西部劇に対する思いは同じです
 
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29スズキくん
 
金魚すくいで我が家に来たのが約12年前。数匹いた仲間は次々と旅立ちをしました。過去にも何度も金魚を飼っていたが、水質管理やエサの与え方が悪くて気の毒な事をしたものでした。しかし…。 この写真の金魚の名は『すずき君』。仲間の旅立ちを見送って、一匹だけの生活が始まった。水槽の水は水道水を屋外にて汲み置きしていた。水が濁る前には入れ替えをする。時には水槽を綺麗に洗う事もしていた。そんな世話が良かったのか、すずき君はみるみる成長して5㎝から10㎝→20㎝→30㎝を超えた。 大きくなると時折、小さな砂利が鼻の穴に入り込み何とか出てくるが10日も入りっぱなしの時は除去をする。トレイに濡れタオルを敷き、すずき君を寝かせタオルを掛けてピンセットで取り除く。 私に慣れたすずき君は暴れずおとなしい。水槽に手を入れると、すずき君から手の中へ入ってくるので優しくマッサージをして意思の疎通を確認したものだ。 そして、体長が31㎝を超えるころ食欲が無くなり動きも鈍くなったので、水を替え優しくマッサージをした。腹部は水が溜まったように柔らかくフンも出ないままだった。 毎日水槽の前に座り、すずき君の泳ぎを見るのが日課だった。ある日、いつものように水槽の前に座ろうとしたら、すずき君はすでに横になって浮いていた。その夜は水槽の電気をつけたまま朝を迎えた。通夜ってやつだ。2012年7月12日。すずき君は旅立った。8年間、一匹だけの生活ではなかったと信じています。 翌朝、庭の隅に埋蔵した。今は、そこに名も知らない花が咲いている。
 
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30漂着物
 
子供のころは室内にいるより外で遊んでいる時間の方が多いくらいでした。海に行くと必ずするのが漂着物集めです。家に持って帰る訳でもなく、ただ探して拾うのが楽しいだけです。 砂浜にあるものと言えば流木、ガラスの欠片、貝殻、石、軽石などですがその場所にあるべきではないモノを見つけると得した気分になれるのが嬉しいんですね。当時はゴミ処理方法が柔軟な時代でしたのでオモチャ、ボール、浣腸などもよく見かけました。 ボールを見つけては流木をバット代わりに海に向かって打っていましたが、大人の方に教えてもらったのが「そのボール何に使ったモノか分かるか?」の質問に対して答えが分からず聞いてみると「汲み取りのバキュームカーのホースの蓋だぞ」という事実が分かった途端に拾うのをためらうようになりました。それでもつい拾って打ってみたくなります。まぁ、海で洗われ汚い訳でもないと都合の良い言い訳を盾に拾っています。考えてみれば、落ちているモノ全てが何かしら汚れているので気にしていたらキリが無いと思います。似たような存在の浣腸は、なぜかよく見かけるモノでした。見つけると幸運とか言ってました。針の付いた注射器なんかも見かけましたが今で言う不法投棄が許された時代の産物なんでしょうね。ガラスの欠片もシーグラスと言われてビーチコーミングの人気アイテムですが、やはり昔のゴミが形を変えて今に至っているだけです。珍しいところではキャッシュカードを拾ったことがありますが、どうしてよいのか分からなかったので半分に折って砂浜を深く掘り埋めた事もあります。哺乳類や爬虫類の死骸も時々あります。大雨で海まで流されて息絶えたと思います。海の哺乳類スナメリも見たことがあります。なんと言っても衝撃的だったのが魚釣りをしていて人の赤ちゃんが岸壁に浮いているのを見つけたときはゾッとしました。隣の釣り人さんが警察に通報してくれましたが、何とも切ない思いをしました。
 
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31日焼け痕
 
 初夏のころからタンクトップに半ズボンの服装が定番のスタイルでした。肩から腕にかけて陽射しが照りつける毎日で過ごしていると真っ黒に日焼けします。意外に焼けるのが首の後ろと足の甲。こんな感じで、ひと夏太陽を浴びていると肌にシミがつく始末。それでも大好きな夏を満喫するために毎年日に焼けています。  ツクツクボウシの鳴き声が少なくなる初秋にはクッキリとタンクトップとビーチサンダルの痕が残ります。この日焼け痕が冬になっても消えず、冬のお風呂で日焼け痕を眺めながらその年の夏の思い出を思い浮かべています。近年ではとうとう春過ぎまでうっすら残るようになりました。結果、年中日焼け痕が残る身体になりました。
 
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32ハイジャンプ
 
 小学4年生から、放課後の特別陸上クラブに参加させていただきました。当時は主に短距離走で100メートル走が自分の種目でした。5年生からは6年生のお兄さんたちと400メートルリレーに選抜されました。と同時に走り高跳びからも声をかけていただき毎日練習していました。正面跳び、はさみ跳び、ベリーロールにチャレンジしてもなかなか記録が伸びず先生に相談したところ、背面跳びという跳躍法があると聞き、跳んでみたところこれが身体に合っていて記録がグンと伸びました。以降背面跳びを中心に練習することになり。時々短距離のスタート練習やバトンの練習をする日々でした。小学生のハイジャンプの練習では着地点がマットではなく、砂でした。背面跳びは背中から首のあたりで着地するので砂場でのバックドロップをくらう感じでした。  中学生になると種目が増えて砲丸投げもあり、100メートルとハイジャンプと砲丸投げの混合三種目があり、一年生から三種目に選抜されました。砲丸投げなんてやったことのない種目でどうやったら遠くに投げれるかを先生や先輩にご指導いただきそこそこ飛ぶようになりました。しかし、三種目でそこそこの記録を出して合計点を競うのはなかなか身体能力を試されるものでした。4地区の学校区からそれぞれの精鋭たちが出場する陸上大会での自分のランクが入賞まで手が届かないのを思い知らされました。100メートルに出場していた友人からは、私の記録だったら銀メダルはもらえるよ。と言われたときはさすがにショックでしたが、陸上競技で身体を動かし鍛えることが嫌いではなかったので黙々と練習だけは続けました。  中学三年生からハイジャンプの背面跳びが禁止されました。長年かけて身体に覚えさせた跳躍法を今更変えることは簡単なことではなく悩んだあげく、はさみ跳びをすることに決めて練習をしました。  跳躍からバーに対して横方向から飛び込むはさみ跳びは飛距離もありました。中学では着地点が砂場ではなく大きなマットなので着地で痛い思いはなくなりました。ある日、はさみ跳びの練習をしていたとき、ジャンプから着地までの飛距離が長すぎてマットを超えて地面に着地。跳びながらの着地は地面を滑り、太ももから腰のあたりまで大きな擦り傷を負いました。幸い打撲程度の負傷だったので練習は続けることができました。 そんな折、背面跳びの禁止事項が緩和されました。背面跳びの練習が再開して跳んでみたら、はさみ跳びの癖が残り少し横方向からのジャンプで背中でバーを引っかけてバーと一緒にマットへ着地。バーは折れてしまい背中には傷跡が残る結果でした。その後の練習で自己記録の165センチが出たときはももと背中の傷も忘れるくらい嬉しかったです。
 
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33マラソン大会
 
中学校のマラソン大会がありました。と言っても42キロも走るのではなく、2キロほどの短い競技です。学年別に走るのですが意識的には部活対抗の感じもあって、当時バスケット部にいたので先輩達からも励ましの言葉をいただきました。野球部の一人はずば抜けて速いと聞いていたので付いていけれたらいいかな、程度に思っていました。同じ部活にも速い人がいて併走するように引っ張ってくれました。結局トップのスピードには付いて行けず併走してくれた人について行くのが精一杯でした。ゴール前の彼はラストスパートの声をかけてくれて必死について行きゴール寸前にスピードダウンして私を先に行かせました。結果私が2着で彼が3着でした。先生方、先輩達、友達からもダークホースの私に激励の言葉をいただきましたが、3着の彼はトップと競えるほどの力を持っていたと思います。なのに私に併走してくれたうえに順位までも譲ってくれました。確かに学年で2着という記録は残りましたが、彼がいなかったら入賞もできなかったと思います。なぜ彼はそのような行動をとったかはわかりませんが、あえて聞くこともなく複雑は気持ちですが彼への感謝の気持ちは伝えました。
 
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34店
 
木下幸男氏との出会いからグラフィックデザイン、イベント企画や設営、マーケティングなどの仕事をお手伝いする中、幸男氏の知人から蔵の片付けを手伝うことになりました。明治、大正、昭和の古道具が軽トラック5車分を幸男氏の工房に運び込み整頓しました。幸男氏はこれを売ろうと私がチラシを作り工房の前に商品を陳列したのが店の始まりでした。目利きができる幸男氏はそれぞれの品に値付けをし整頓した翌日の朝にはすでに陳列が終わっていました。雑貨王の異名を持つ幸男氏にとっては小さな店構えを作るのに時間は要らなようでした。 店は毎日あける開けるわけではなく月に一度の三連休を店舗として開店しました。本来の価格より安目に付けた値段により半年ほどで半分ほどの商品が売れました。ある日別の友人から倉庫に不要な品があるのでもらって欲しいと頼まれて引き取りに行きました。そしてまた店前での商売になり徐々に売れました。 幸男氏が病に倒れてこの世を去った後も時々店を開けるようにしました。幸男氏が取引していた岐阜の美濃焼窯元から仕入れができることになり、少数から始めた器屋が今のロテン長屋です。以来、美濃焼を仕入れる傍ら地元の知人の窯元から仕入れたり、作家がロクロでひいた茶碗に私が絵付けをしたり現在に至ります。最近では雑誌やテレビにも載せていただける、ちょっとマニアックな器屋としてリピーターも来るようになりました。 ある日、地元常滑の陶芸研究所という施設で全国から陶芸を学びに来る若い女性が訪れてロテン長屋の奥にある工房で作陶をすることになりました。当然若い陶芸家さんが自分の器を作れば売り場も必要になるということで、ロテン長屋が作家さんの店になるということで、私はロテン長屋を手放して幸男氏の娘さんが営むカフェの倉庫を半年がかりで改装して私の手作り雑貨を売る新しい店舗を作りました。それが、今の「なみのこ」です。オープンして間もなく、若い陶芸家さんがロテン長屋は使わないことになりました。私としては一人で2店舗を営むこともできずロテン長屋は閉店が続きました。やがて「なみのこ」の店番が見つかり、「ロテン長屋」を手伝ってくれる友人が訪れて両店舗を開店することができました。その後両者の都合により現在は「ロテン長屋」を開けつつ「なみのこ」はアトリエとして使わせていただいています。 思わぬ出来事が発生して臨機応変に対応しながらの商売を続け、この先もどんなことがどんな風になるかはわかりませんが、そんな変化を楽しむことを忘れずに、常に心を開いておくようにしています。 未だに心の支えになっているのは、木下幸男氏で辛いことや悲しいときのは必ず幸男氏が何かヒントを与えてくれている気がします。もちろん、楽しいときにも幸男氏は私の心に帰ってきてくれます。
 
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35祭礼
 
私が42歳の時、地元の役員に推薦していただいた方がいまして、以来14年役員を続けています。主な行事としては、春の祭礼、廃品回収、盆踊り、運動会、防災訓練、大晦日などの行事をボランティアで地域貢献することです。中でも祭礼は区民の方々も楽しみにしている行事です。 祭礼の山車の運行に関する祭事係、食事を運んで食事場所を設営する運搬係、食事を作る炊事係の3部門に分かれ2月の中旬から準備が始まります。私が役員になってからは運搬係でした。設営に必要な掃除道具やブルーシートを運んで設営して食事が終わると片付けして清掃までをしていました。その運搬係を7年間。その後は、祭事係になり見習いを一年した後にはすでに副祭事長になり翌年には祭礼の要である祭事長を経験させていただきました。その後も祭事係を続けて7年間、大役が終わり後輩の面倒をみたり準備などのご意見番として楽しく参加させていただいています。 当地区では区長が中心となり20名の役員と150名ほどの関係者が祭礼に携わります。厄年を過ぎて一つの行事に一丸となって取り組むことは事務的な仕事では成り立たず、仲間として友達として年齢の枠を超えての楽しい組織です。そんな組織に参加できて感謝です。この年齢で新たな仲間や友人ができて、今では月に一度オジサンだけの誕生日会という名の飲み会まで発足されます。年間行事ごとに役員会が何度も開かれ、その後の飲み会がまた楽しくて参加率も高いです。特に祭礼準備の役員会では週に三度行われますが毎回飲み会がセットです。と言うのも、飲み屋さんからの祭礼寄付金をいただきに出向くのですが通算30回ほどの飲み会は体力も経済力も必要です。いっそ寄付金をいただくための飲み代を祭礼の寄付に回した方がどれだけ高額か計算すればわかることなんですが、山車を二日間曳き回すだけがが祭礼ではなく準備段階から関係者の祭礼が始まっているのです。飲んで騒いで祭礼のことで真剣に意見交換を交わし合いながら飲むお酒がすでに祭礼なんです。利害関係のない仲間との交流は何にも代えがたい楽しさがあります。 この先あと何年役員を続けれるかわかりませんが、この仲間達を大切にしていきたいです。
 
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36海水浴(若狭湾)
 
就職してから高校の同級生たちと車であちこちに行きました。日本海の夏の若狭湾は水もクリアーできれいな海でした。手こぎボートを借りて沖まで行き海へダイブ。素潜りが好きな私でしたが透明度がよいので海底の岩まで行こうとしても潜っても潜っても海底に着かない。何度かチャレンジしても届かない。海底は諦めて中層で泳いでました。友達連中は水面あたりでスイスイと気持ちよさそうに泳いでいましたが、突然「痛ぇ!」と。友達数人が胸や肩にミミズ腫れ。何がどうしたのかわからなかったが、よく見たらクラゲでした。クラゲの触手が身体にまとわりついて刺されていました。一人の友人は右耳から鼻から左耳まで顔面を二分するように刺されました。平泳ぎでスイスイ泳いだ先に触手が横に伸びていたんですね。 急いで岸までボートを漕いで海の家のおばちゃんに言ったら、やっぱりちゃんと用意してありました。「酢」なんですね。このような場合は。刺された友達は痛いと言いつつも元気よく昼食のカレーライスとラーメンの海の家定番を楽しくいただきました。 さて、なぜか私は刺されておりませんでした。水面に何匹かいたはずのクラゲは確かに私の身体に触れているはずなのに刺されませんでした。
 
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37海水浴(柏崎)
 
友達の親父さんの実家が新潟にあり、盆休みにいつもの連中と車でお宅訪問させていただきました。厚かましいことに一泊させていただきました。私の母の実家が山形でよく似た田舎で、懐かしかったです。お宅のおばさんに山形のことを話すと、「山形の言葉はわかんねぇ」と。確か山形のおばさんは「秋田の言葉はわかんねぇ」と言ったましたが、名古屋弁の私たちにはどちらもわかりません。 朝食をいただき身支度をして海水浴に行くことになり場所を聞いたのが柏崎でした。こちらの海は雨の影響なのか透明度はなく赤潮と海藻混じりの海だったので素潜りはできませんでした。昼飯はやっぱり海の家定番のカレーラスとラーメンです。食べ終わってから泳いで沖まで行きました。浮き輪もなしで足も届かない水面でプカプカ。飽きた友達がなぜか私を沈めようと頭を押さえに来ました。遠慮なしの攻撃に私は海水を飲み溺れる寸前でした。全く手加減なしの友達は困ったと言うか楽しいと言うか。徐々に気持ち悪くなってきた私は友達から少し離れプカプカ浮いていたら急に嘔吐の予感。友達に背を向けて海にリバース!プカプカしている私の目の前で昼のカレーライスがプカプカ。ゆっくりそっとその場を離れた私は友達の元へ。すると、海流に乗ったカレーライスがこちらに向かってきました。私を溺死寸前にした友達がそれを見つけて「なんか黄色いものが浮いてる!」と、手で避けようとしたので「それ、俺のカレーライスだぞ!」と声をかけたら全員バタ足クロールで岸まで泳いでいきました。それを見ていた私は笑いながら平泳ぎで岸に向かって泳ぎましたが、この一連の光景を思い出したら笑いが止まらず溺れるところでした。
 
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38山形
 
私の母は山形の山奥の出身で、夏休みには何度か家族で訪れました。母は九人兄弟で上から二番目の次女として山形で暮らしていました。しかし、最近になって知ったのですが母の生まれは大阪だったことが分かりました。母の両親は山形から大阪へ出て煎餅を焼いていたそうです。なので、未だに山形の実家では通称「せんべや」と呼ばれています。その後山形に帰って農業をしていたまでの経緯はよく分かっていません。いずれ調べてみたいと思います。 山形の家はいわゆる四つ住まいの昔の建物で台所とお風呂が壁もなく続いてその先の裏口を出たところには井戸があり、家畜小屋がある映画のセットのようで、二階へつづく階段には扉があり、トトロに出てきた家のようでした。池の裏には大きな人工の池があり金魚がたくさんいました。養殖なのか趣味なのか、田んぼにくみ出すため池なのかは気にもしたことがないです。 山をお持ちで、川沿いには畑があり、栗の木、桃の木などの果実もたくさんありました。山形で有名な「芋煮会」というジャガイモを中心とした野菜がたっぷりの鍋料理を川沿いの土手の上にある農機具小屋の前で親戚が集まり食べていました。その親戚というのが山形の実家、東京に5件、神戸に1件、宮崎に1件、そして我が家で全員集まったことがありませんが、いつも夏休みには20人くらいいた気がします。未だに会ったことがないイトコがいるくらいです。今思えば、それだけの人数分の三度の食事を毎日お母さん達は作っていたんですね。朝ご飯を作って片づけたと思ったらもう昼ご飯の準備が始まるような騒動でした。夜ご飯には総勢がお食事タイムで毎日が宴会状態。やっぱり、お母さん達は大変だったんですね。 子供の遊びと言えば、虫取りですが地元では見たことがないカブトムシの大群を初めて見たときは驚愕でした。捕れる限りのカブトムシをお土産に持って帰ったこともありました。鳥かごいっぱいのカブトムシを持っているだけでヒーローでした。友達に分けて感動を分かち合いました。それより印象に残るのが川遊びです。有名な山形の最上川の支流になる朝日川は浅瀬もあり深場もあって流れもそれぞれでイトコのお兄ちゃんの指示に従って自然のルールに守られながら遊んでいました。遊びと言っても、東京のおじさんが鉄工所を営んでいて子供用の小さな銛(もり)を作ってくれていたので、銛でアユを突くのが遊びであり、家族の食料になるわけです。最初はうまく突けなかった私も徐々に腕も上がり数匹は突けるようになりましたが、地元のイトコ達にはかないません。そんなときはおじさんが投網を投げてその中にいるアユを手づかみで捕まえていました。大人達は川をせき止めビクという葦でで作られた道具でアユを捕る、いわゆる漁で大漁でした。30人の食欲を満たすにはやはり道具が必要だったんですね。 子供の夏休みと言えば、なんと言っても「夏休みの友」。毎日大自然の中で楽しい生活をしていたら宿題なんてやってられません。小学四年生の時の「夏休みの友」の最後のページに「たくさん思い出ができましたね」と赤ペンで書かれた先生からの言葉がありました。 それが私にとっての山形であり、夏の思い出です。
 
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39映画
 
私が小学五年生のころ、テレビでは毎日にように映画の放送がありました。日曜洋画劇場、月曜ロードショー、火曜映画劇場、水曜ロードショー、木曜洋画劇場、金曜ロードショー、土曜映画劇場と深夜にもいくつかの映画を放送していました。当時はまだ日本語吹き替えではなく字幕のままだった映画もありました。五年生の学力では読めない文字とか早かったりとかで、あまり興味もなかったのを覚えています。 初めて興味をそそられたのが「荒野の七人」でした。とにかくカッコイイだけの感想しか残らなかっただけですが、未だにその感動は覚えています。それから西部劇という映画を見ていました。「真夜中のカウボーイ」と言う邦題の映画を新聞のテレビ欄で発見して、放送時間が来るのを楽しみにしていました。映画が始まり背景に違和感。一緒に見ていた姉と母はそれがどんな映画かを分かったみたいです。思春期前の私には大人の映画を見るのに躊躇します。なのでこの映画は途中で終了してチャンネルを変えてその場の雰囲気を逃れました。 何本かの西部劇を見るうちにアメリカ映画とイタリア映画があることを知りました。今のように情報社会ではないのでそんな事を得るためには雑誌から情報を得ることしかありませんでした。が、その雑誌ですらそう簡単に入手できるものではないので、映画放送の前後にある解説コーナーから情報を得ていました。 次に感動した西部劇は「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」の今で言うマカロニウェスタンの三部作です。主演のクリント・イースト演じるガンマンに憧れました。それは今でも憧れのガンマンです。クリント・イーストウッドのファンではなく演じたガンマンが好きなんです。 様々な西部劇を見るうちに出演者のことが気になりはじめ、同じ俳優さんが違う映画に出ているのに興味が湧いてきたのです。それからというもの、あらゆる分野の映画を片っ端から見るようになりました。それは毎日のことになり夜の九時からは家が映画館でした。一台しかないテレビのチャンネル権を得たのです。末っ子の特権ですね。 戦争映画、恋愛映画、ミュージカル、マフィア、学生もの、刑事ものなどを見ているとそれぞれに感動するようになりました。映画がおもしろい、と言うより映画はイイ。という自分なりの感想を持っていました。俳優さん女優さんの名前を覚えたり映画の題名を覚えたりと専業の勉強はダメでしたがこれは何だかすんなり覚えられました。 今ではパソコンであらゆる映画を見られる時代になり、さらに携帯電話からでも映画を見られたりその情報までが事細かく得ることができます。映画製作の技術も進化してアナログなスタントが今ではCGという技術で想像できるシーンは何でも作れるようになりました。この先の進化はどこまで進んでどこまで付いていけられるのやら。楽しみです。
 
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40アメリカ
 
映画の影響でアメリカには憧れていました。行けるとは思っていなかったアメリカへ行けたのは家族がディズニーのファンで東京ディズニーランドへは何度も行きましたが、ついに本場のアメリカ・カリフォルニアのディズニーへ行きたいと言い出したのがきっかけです。学校の教科で英語は好きな方でした。しかし、しゃべれるまではできなかったので知人の紹介で英会話教室へ通うことにしました。ペラペラしゃべれることはできませんでしたが、いざアメリカへ。 深夜のフライトで今がどこで何時かも分からないままトイレに行く途中で窓から見えた紺色とオレンジのグラデーションの空がとても印象的でした。眼下には碧い海に島が連なっていました。近くにいたCAさんに「あの島はどこですか?」と聞いたら「今、機長に聞いてきますのでお待ちください」と。トイレを我慢して待っていたら「ベーリング海のアリューシャン列島です」。テレビでしか見たことがない地球を一万メートルの上空から見れたのはホントに感動しました。いよいよアメリカ大陸が見えてきてコードも下がり眼下に見えたのは、あの憧れのアメリカ西部の赤土の荒野でした。ここを馬で走りたいと思いましたが今回の旅はそちらまでは行かないのでしっかりこの光景を目に焼き付けてきました。そして飛行機は着陸態勢。 ロサンゼルス空港に到着すぐに入国審査のゲートへ行くも行列で、空いてる列へ並んで窓口で太った黒人のおばちゃんに言われたのが「○×※☆■」。何度聞き直しても短い言葉が分からない!そもそも英語なのか?と疑うほどに分かりませんでした。すると後ろの方が、「こちらのゲートはアメリカ人専用ですよ」と。焦った私に気を利かせてきただいた優しい方でした。「ちなみに、なんて言ってたんですか?」と聞いたら「Areyouamerican?」だそうです。アメリカで初めて聞いた英語がそんな単純な言葉なのに分からないとは、この先どんな珍道中が待っているのか不安でした。 無事に入国審査も終わり、空港の外へ出ると旅行社のお迎えのワゴンに乗車してツアーが始まりました。飛行機の中でのワクワク感で今になって睡魔が襲ってきました。どうにも睡魔に勝てず何カ所かの見学は車中で過ごすことになりました。仮眠したあとはようやくアメリカを堪能しようとあれこれ見ましたが、チャイナタウンやハリウッドスターの手形がある通りくらいは覚えていますが今あまり覚えていないのはなぜでしょうか?そういえば、ワゴンの中でのツーリストが日本人で、昔名古屋の覚王山に住んでいたという女性で世界は狭いなと思いました。 ディズニーランドともう一つユニバーサルスタジオへも行きました。どちらかというと、ユニバーサルスタジオの方が私には合っています。ウォーターワールドのアトラクション、バックトゥザフューチャーのデロリアンもカッコよかったです。サラッと説明をされて聞き流すところでいsたが、なんと、あの「荒野の七人」のセットがあったんです!これにはサプライズの感動でした。あのガンマン達がここで……と思うと涙が出そうでした。アトラクションの一つにやっぱり地元の歴史なんでしょうか、ウェスタンアトラクションがあり、どうしても見たくて家族で見ました。日本ならモデルガンに火薬を詰めて撃ちますが、こちらでは本物の銃に空包のカートリッジなので迫力が違い過ぎます。 ディズニーランドでは、相変わらず早口の白人の英語が分からず入園するときから四苦八苦でした。家族はしゃべれないにしても手振り身振りで楽しんでいたようです。なまじ、勉強をするとこんなもんですね。パレードを見るときにビデオカメラで撮っていたらバッテリーが切れてしまい、撮れなくなった私に声を掛けてくれた男性がいました。なんと言うことでしょう?彼のしゃべっている英語が分かるんです!これには自分も驚きました!聞けば、彼はオランダ人でイギリスでアパレルの店をしているそうです。で、住所の交換をして彼が撮ったパレードのビデオテープを送ってくれると言ってくれました。袖触れ合うも多生の縁というかその気持ちだけで嬉しかったし、自分の英語が通じたことに感激しました。結果、彼からは送られてきませんでしたが気持ちだけは十分いただきましたよ。どうやら、アメリカの発音が分かりづらいのでしょう。パーク内のドイツ人とかベルギー人がしゃべる英語は聞き取れることが今回の旅で分かりました。しかし、日本で通った英会話教室の先生はアメリカのコネチカット州出身の白人でしたんですけどね。 三泊六日のアメリカの旅も終わり、帰りの飛行機に乗ったときは内心ホットしました。当時はまだ機内での喫煙が大丈夫で喫煙席が後方にありました。そこで知り合ったアメリカ人?日系?よく分かりませんが私の英語が通じたのであれこれ世間話をしながらの機内は楽しい時間を過ごせました。これから日本の知人を頼って仕事をするそうです。行き先は浜松とローカルな場所でした。名古屋空港に着き手荷物検査などをするカウンターで後ろにいた機内の友人がいきなり止められて、いくつか写真が載っているシートを見せられていました。そこには銃と麻薬の写真があり、検査官が後ろの男性に問い合わせてスーツケースを開けさせるほどにチェックをしていました。機内で話したときに彼はカリフォルニアに住んでいる。と言ったのにチケットをチラ見したらなんとブラジルのサンパウロからロサンゼルス経由で日本に行こうとした男性と言うことが分かりました。おいおい、ヤバい人だったのか? というのが私の語学が試される家族旅行でした。
 
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4147都道府県
 
通過も併せてですが日本の47都道府県を行くことができました。 北から北海道は会社の研修と慰安旅行でした。しかもルートがほぼ同じで札幌、函館、登別と二度も行きました。東北もまた慰安旅行で青森、岩手、秋田の夏の祭り巡り、山形は母の実家で飛行機、列車で行きましたが一度だけ名古屋からの船旅で仙台から車で山形へ入った事もありました。帰りは車で家まで走ってきました。東京のおじさんが(母の妹のご主人)タクシードライバーで東京から山形まで行くのに便乗させていただいたこともあり茨城、栃木、福島を経由しました。列車で山形へ行く時に群馬を通過して行くこともあり、新潟へは友達の親戚を訪ねて行きました。千葉はディズニーランドで泊まった市川市で、埼玉は友達が住んでいるので訪ねたことがあります。東京へは公私ともに何度も行き、神奈川はお世話になっている方の横須賀へ度々、山梨は修学旅行で富士山へ、長野、富山はスキーへ行きました。静岡は日帰り旅行や個展でお世話になっています。岐阜も旅行やスキーと美濃焼の仕入れで何度も、石川は輪島へ旅行でカニを食べました。三重、奈良、和歌山、滋賀はバイクのツーリングで行ったり友達と車旅、福井へは海水浴で行き、京都は旅行で何度か。大阪へは仕事の研修で、兵庫では個展でお世話になったり、旅行でも淡路島も行きました。鳥取、岡山も車旅で友達と行きました。広島の平和公園は旅行と研修で二度、四国へは高校の修学旅行で四県を巡ってきました。九州は宮崎に親戚がいたり恩師がいたり、お世話になった方の実家があったりと何度か訪れました。沖縄へは新婚旅行で行った以来何度も家族で行ってきました。 ここまでの45都道府県は機会があって何度か訪れることもありましたが、どうしてもご縁がなかったところが、島根と山口でした。友達と九州の大分にいる恩師を訪ねる旅を計画するときに、訳を言って島根を入れてもらいました。山口は関門トンネルがあるので行くことは分かっていましたが島根だけは外せず友達に理解してもらい行くことができました。 こうして私の日本紀行が達成しました。
 
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42料理
 
好き嫌いは少ない方だと思いますが、辛い唐辛子、軟骨、ホルモン、香りがきついものなどが苦手な食べ物です。その他の食べ物に関してはまずいもの無しの旨いものなしって感じで、それなりの味を楽しんでいます。 そんな味音痴の私が料理をすることがあり、レシピ本を見ながら作ってみました。完成品はどう見ても写真とは違い過ぎます。挽肉を使った料理だったんですが見た目が悪く食欲をそそる代物ではありませんでした。結果、家族の誰も箸を付けずにそのまま廃棄。 どうやら、味音痴でまずいものなしの舌を持つ私には料理が向いていないんですね。だから、人が作る料理についてまずいとは思いませんし、むしろ感謝しています。デザインの仕事やイラストを描く事を仕事にしていると想像力が不可欠ですが、料理も同じく想像力が大切と思います。食材に味に何をブレンドしたらこんな味になるか、想像しながら調味料も目分量で味を調えたりするのは、私にはできませんでした。家族も諦めてそれ以来料理をすることはありません。
 
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43となりのお兄ちゃん
 
私が生まれ育った家は、当時の振興市営住宅で若い夫婦がほとんどでした。つまり、同じ年頃の子供達がたくさんいて賑やかな町内でした。六件長屋の住宅は平屋の庭付きアパートです。小高い丘の上にに建てられた住宅の集まりで昭和のよき時代だったと私は思います。 家のとなりには私の姉と同級生のお兄ちゃんがいました。そうなんです、町内の子供達は皆兄弟のように育ち、あちこちの家に泊まりに行ったりご飯を食べたり、誕生日会には近所の子供達がお祝いしてくれたりと町内ファミリーで、兄、姉、妹、弟となる子供達でした。中でもとなりのお兄ちゃんは別格で、弟のように接してくれました。 外で暗くなるまで遊ぶ私と違って家でプラモデルを作ったりしている割と物静かなお兄ちゃんと遊ぶときはまったりしていました。小学生の時、そのお兄ちゃんの自転車の後ろに乗せてもらい近くの空き地に遊びに行きました。でこぼこの原野をお兄ちゃんはそこそこスピードを出し、お兄ちゃんの腰にしっかり捕まっていないと振り落とされそうでした。意外とアクティブなお兄ちゃんにびっくりでした。お兄ちゃんは好んででこぼこを走るうちに、その振動で私は股間を思いっきり強打して、大声で「お兄ちゃ~ん!!」と言っても呼んでるだけと思われたのか自転車が止まる気配もなくそのまま激走。異変に気づいたお兄ちゃんはようやく止まって半泣きの私をなだめて家まで送ってくれました。
 
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44ポンスケ
 
「ポンスケ」とう言葉はどこの地域まで通じるのかまかりません。 小川や池や田んぼの水たまりで、手づかみや道具を使ってフナやドジョウなどの水の生き物を捕まえることを私の地域では「ポンスケ」と言っていました。水が温む五月から初秋までの子供達の楽しみでもありました。 雨上がりで池の水が溢れて田んぼに流れ落ちる水たまりには絶好のポンスケポイントでした。膝ほどの水深の水たまりに裸足で入り、手づかみでフナを捕まえてバケツに入れるのです。捕まえたフナはそのままご臨終。どれだけ捕まえるかが楽しみで、今思えば気の毒なことをしたと思います。しかし、我々子供達にとってはそれが遊びの一つであり、中には家に持ち帰り生かしていた人もいましたが数日後にはご臨終という結末。いずれにしても捕まった魚の結末はそうなります。 フナがメインの獲物ですが、ドジョウ、モロコ、タガメ、メダカ、ヤゴ、カメなど数種類の生き物が捕れました。道具を使うこともあり、お母さんに内緒で台所からプラスチック製のザルを拝借して池の縁をザルですくうと小エビやドジョウが捕れたりしました。そのザルはきれいに洗ってそっと台所に返したつもりでしたが、お母さんには使ったことが分かっていたようです。きれいに洗ったつもりだったんですが。 私が生まれ育った地域には田んぼがあり、いくつかの田んぼのため池が点在していました。そこでは主に釣りをしました。池によって生息する生き物が違ったりしてたのは、田んぼの持ち主が池に放流した金魚などがいて、それを釣っては楽しんでいました。そのころの大人は結構寛大で、私たちが釣っても何も言わずに見守ってくれました。ザリガニ釣りも楽しみの一つで、バケツ一杯のザリガニを釣ってました。当時はまだ日本ザリガニが多く、赤い身体のアメリカザリガニは珍しく通称「マッカ」と呼ばれ、子供達の人気者でした。 誰の噂か知らないけれど「あの池にはナマズがいる」という伝説がありました。誰も見たことないのですが、見たという噂だけがひろがりなぜかその池では釣りはしませんでした。もう一つの伝説は「河童池」です。これは、裏のお兄ちゃんから聞かされた話ですが、「あの池には河童がいて夕方にその池に近づくと河童に引き込まれるから注意しろ」と。以来、昼間にその池の前を通るだけで緊張しました。いないだろうなと思う自分と、もしかしたらいるかも。という気持ちもあって怖かった池です。結局、お兄ちゃんは私をからかっていた河童伝説ですがね。そんなお兄ちゃんは今でも憧れの兄貴です。
 
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45田んぼの藁家
 
私たち子供達の遊び場として稲刈り後の田んぼもその一つでした。今では器物破損とかの犯罪ではないでしょうか?稲刈りの後脱穀をした藁を家の形に積み上げて乾燥させていたものが田んぼの中央にいくつかありました。持ち主の方が一生懸命丁寧に積んだ藁を私たちクソガキはキックをしたり乗ったして壊していたんです。散らばった藁は天然のマットに化しました。そこでプロレスごっこなどをして遊ぶのが楽しみでした。結果、持ち主に叱られたことはなかったのですが、やっていい遊びではないと今は思います。当時のお百姓さん、すんませんでした。
 
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46カメとザリガニ
 
ポンスケの獲物としてカメがありました。銭亀、クサガメ、イシガメの三種類のカメが生息してました。他の子供達よりカメ運がよく、誰よりもカメと遭遇する確率が高かったのです。珍しい生き物でしたので、よく欲しがられていました。甲羅が5センチほどの小さなカメを学校に持って行って水槽で飼っていましたが数日後にはいなくなることがよくありました。どうしても欲しくてそっと持ち帰る子供がいたようです。それでも私はカメ運がよかったので何度か学校の水槽に寄付してました。中には20センチを超える大物も何度か捕まえまして、家で飼っていました。飼うといっても不要になった浴槽に入れてただけですが。餌は何だろうと思い、ちくわとかかまぼこを与えていました。ある日、釣ったザリガニをその水槽に入れておいたら翌日ザリガニの数が減っていました。カメはザリガニを食べることが分かり、時々カメの餌用のザリガニを釣りに行くことになりました。 やがて水槽にいたカメは水が濁り悪臭が出てきたので学校の池に放流しました。
 
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47松本かん
 
私の父方の祖母は「松本かん」と申します。明治33年(1900年)生まれです。 和裁をたしなむ方で、納品先の美容室までおばあちゃんに連れられてよく行きました。商売道具である糸やチャコなどをお使いで買いに行ってました。針を頭に擦りつけて針の通りをなめらかにしている光景を覚えています。子供ながらに針が頭に刺さらないかを心配して「刺さらないの?」と聞いたこともありました。おばあちゃん子の私はお使いをしてはお小遣いをもらって近所の八百屋でお菓子を買いました。タバコもたしなむおばあちゃんのお使いでたばこ屋へも行きました。ちなみに、銘柄はいこいでした。いつもキセルを使って吸っていて、時々ちり紙でこよりを作りキセルの穴を掃除してました。 そんなおばあちゃんにはもう一つの顔があり、一度だけ付いていった先は同年代のおばあちゃん達が花札をしてました。マッチ棒を脇に置き勝った負けたの勝負をしてましたが、つまりは博打打ちでした。夜遅くまで博打をしているおばあちゃんを親父が迎えに行ってたんでしょう。 そんなおばあちゃんもいつしか寝たきりの老人になり私が中三の時、74歳の時老衰でこの世を去りました。 おじいちゃんの存在はありませんでした。話しすら出ないおじいちゃんはどんな人なんだろう?と思いましたが我が家ではおじいちゃんの話しは暗黙のタブーでした。後に聞いたところ、おばあちゃんはどなたかのお目掛けさんで女手一つで親父を育てたそうです。博打好きなおばあちゃんにとって子育てが苦手なようでそんな母親を親父はあまり好いていなかったようです。なのでおばあちゃんと親父がしゃべっている光景は見たことがないほどでした。しかし、私にとっては大切な大好きなおばあちゃんでした。
 
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48姓名判断
 
私がまだ会社勤めを時のことです。地場産業である焼き物の問屋を経営していた当時90前のおじいさんがいまして、陶器業界では恐れられていた方でした。そんなおじいさんもなぜか私には優しく接してくれました。 ある日、古い本を持ち出してきて、文字が小さくて読めないので大きくして欲しいとの依頼がありました。本の最終ページによくある製造元とか印刷会社とかが記してある奥付をみたら、出版元の住所が現在の東京23区が東京市になっていたほど古い本でした。その本をコピーで拡大してきれいに製本をして無事納品できました。当時は単品で製本するまでは手間暇が掛かり一式で2万円という高値でしたが、おじいさんは「ちょっと高いな」と言いつつも支払ってくださいました。 その本が何かというと、姓名判断の虎の巻でした。聞けばおじいさんはその昔、東京でそういった類いの権威でもあって大勢の姓名判断をしていたそうです。本をリメイクしたお礼にと私の姓名判断をしていただきました。私の名前を紙に書きおじいさんが5分ほど無口になり、突然口を開いたかと思うと「あんたは、独立せんのか?」といきなり言われても当時は定年までお世話になった会社に勤めることしか考えてませんでした。「定年までお世話になりますよ」と言っても「おまえがなんと言おうとそういう運命になっとるんだで逆らえん!独立して成功することになっとる!」とキッパリ言われました。それはさておき、「おまえはタバコを呑むのか?」「はい」「一本くれ」となり、二人でタバコを呑みました。私は100円ライターで、おじいさんは古いマッチでカッコよくタバコに火を付けました。そして、「タバコを止めるやるは皆死んどるでなぁ。タバコなんか止めるもんじゃないぞ!」と言われても止めるつもりもありませんでしたけどね。 数年後、なんと私は定年より12年も早く退職しちゃいました。あのおじいさんのところへ行き、退職のご挨拶に行き姓名判断の話しをしたところ、「俺が決めたことじゃない。おまえの運命だからな!」と。そしてまた、二人でタバコを呑んだのが最後でした。その数年後おじいさんは他界しました。 私の未来を言い当てたおじいさんが言った「成功することになっとる!」の成功とは何ですか?金持ちになる事が成功ですか?有意義な時間を使える事が成功ですか?仲間に恵まれることが成功ですか?その「成功」の意味が分からないまま未来を楽しみに待っている現在です。あと、止めたら死んでしまうタバコはまだ呑んでますよ。
 
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49内職
 
私が生まれ育った家は決して裕福とはいえず、むしろ貧乏な家でした。母親の血を受け継いだのか、親父もまた博打好きで競艇、パチンコ、麻雀と賭け事が好きで稼いだお金をそこそこ自由に使っていたようです。また、気の短い親父は職も長続きはしませんでしたので収入も少ない方でした。母親は近所の工場へパートで行ったり、家で内職をして家計を守っていました。私がよく行った八百屋の紙袋を母とおばあちゃんが新聞紙で作っていたこともありました。少ない収入の中で博打を楽しむ親父と内職で稼ぐ母とおばあちゃんの稼ぎはそんなになかったでしょう。しかし、姉と私の二人の子供を高校まで卒業させてくれたお金は取っといてあったのですね。月末には必ずお金のことで夫婦喧嘩をしては泣きじゃくる私は月末が来るのが怖かったです。月末以外でも夫婦喧嘩はあり、その恐怖に怯えていました。おかげで私はギャンブルには興味はなく一切やりません。しかし、48歳の時に人生の大博打を打って会社を辞めて今に至ります。結局博打の血でしょうか?
 
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50買い物かご
 
小学生のころはまだ大型スーパーなどはなく近所に八百屋とか魚屋とかが点在していてお母さんが行く食材の買い物は主に買い物かごを提げていました。そんな習慣で私がおばあちゃんに買い物を頼まれて、買い物かごに千円札を入れて籠をを振り回しながら八百屋へ行き支払いをするときに買い物籠にあるはずの千円札がありませんでした。困った私に八百屋のおばちゃんは「おばあちゃんのお使いでしょ?今日はお金いいから」「お金を落としたことだけおばあちゃんに言うんだよ」と、優しかったです。しかし、その後私が籠を振り回しているところを見ていたもう一人のおばちゃんがいまして、籠の千円札を拾って八百屋に届けてくれたそうです。八百屋のおばちゃんは家まで来てくれて買った分のおつりを届けてくれてました。 その夜に一部始終を知った母は翌日お礼に行ったそうです。なんだか優しい人たちのほんわかした話しです。当時はそんなものと思っていましたが今は、癒やされるおばちゃん達に感謝しています。
 
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51テツ(犬)
 
私が小学生のころ、向かいの家では犬を飼っていました。茶色の中型犬で名前は「テツ」です。姉は動物好きで毎日のように触れあい給食のパンをテツに与えていました。ところが、私は大の犬嫌いでして、嫌いと言うより怖かったです。テツは私が近づくだけで眉間にシワを寄せてうなるように吠えてきます。当時はあちこちで犬を飼う家があり、時には鎖でつながず飼っている家もありました。テツは鎖でつながっている犬なので近づかなければ大丈夫でしたが私に対する吠え方は尋常ではないくらいでした。ある日、そのテツが鎖をちぎって離れたことがあって、幸い私は家の中でしたので良かったですが、となりのおばちゃんが飛びつかれていたようで悲鳴をあげていました。直接見ていなかったのでどのような状況下は分かりませんでしたが、おばちゃんの悲鳴を聞くだけで泣きそうでした。 保育園のころから近所の放し飼いの犬に追い掛けられながらも外で遊ぶ私でしたので、お陰様と言ってはシャクですが逃げ足が速く、鍛えられ、その後の陸上競技がそこそこできました。「犬と走る子供」は近所でも有名でした。今、冷静に思えば、犬は私を襲ってきた訳ではなく、追いかけっこをして遊んでいたのですね。しかし、歯をむき出しにして眉間にシワを寄せて吠えられたら遊びでは済まされませんよ。 大人になり犬への恐怖感は多少和らいだにしてもまだ怖いです。が、私の身体も成長して今感じるのは犬に対して「勝てる!」です。奴らが本気で襲ってきて生死を掛けて戦えば勝てると思えるようになりました。
 
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52ミィ助(猫)
 
動物が苦手な私は、文鳥や鶏などの鳥類も触ることができませんでした。それに対して姉は動物全般大丈夫のようです。結婚してからはフェレットやらの小動物も飼っていたようです。 私が小学生の時、あろう事か家の本棚の中に黒い子猫がいるではないですか!姉の仕業とすぐに分かりました。父が反対するのを知っててこっそり飼うつもりだったようです。しかし、我が家は長屋の狭い家なのですぐにばれましたが、父は姉の懇願に負けたのか、その子猫を飼う事を許したのです。父が許しても私は許せません。同じ屋根の下に猫がいるなんて考えられません。毎日怖くて仕方がなかったです。もちろん触れませんので世話もできませんし、日々猫のいない場所が私の居場所でした。 私は知らなかったのですが、夏の夜、私が寝汗をかいていたら猫が私の身体を舐めていたと言うのです。聞いただけでゾッとしました。絶対近寄らせないでとキツく姉に言ったのですが聞く耳持たずでその後も何回も私の寝汗を舐めていたようです。 ある朝、私が学校の身支度をしていたら父が後ろから私のふくらはぎに手で掴み、まるで猫がかみついたかのようにからかってきたのです。毎日が恐怖の私は猫に噛みつかれたと思い学校へ行く前の号泣!その朝どのように学校へ行ったのかは覚えておりません。 その後、何週間か何ヶ月か分かりませんが次第に猫に慣れてきた私でした。私がテレビを見ていると寄り添うように隣に来て寝ていました。私も触れるようになり喉をさすってやり猫のゴロゴロと鳴る声が聞けるようになりました。その黒い子猫の名前は「ミィ助」。 ミィ助は今時の家猫ではなく放し飼いでした。近所の野良猫との戦いもしていたようです。額の毛が抜け出血して帰ってくることもしばしば。オスのミィ助は野良猫たちと恋の争奪をしていたのですね。放し飼いですので時々近所のお宅に入り込みイタズラもしていたのです。特にとなりのお宅にはよく入っていたようで、母はこのおばちゃんから相当叱られたみたいです。そこで犬小屋ならぬ猫小屋を作ることになり、友達が手伝いに来てくれました。あり合わせのベニヤや焚き物の木を使って金槌でトントン作っていたら、あのとなりのおばちゃんが「朝からトントンとうるさい!頭が痛くて仕方がない!」と激怒!!楽しく作っていたその場の空気が一気に冷めて、見かねた父が手際よく小屋を作ってくれました。私も含めて友達からも「あのおばちゃんは怖い」という烙印が押されたのです。となりのおばちゃんといっても、仲良くしてくれているお兄ちゃん家とは反対側のおばちゃんです。 そういえば、鳩を捕まえてきた父が鳩小屋を作って飼っていたこともありました。姉と父はよくケンカをしてましたが、似たもの同士なんですね。
 
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53裏の鶏
 
上の裏側になる家には同じ年のえみちゃん、3つ上のみえちゃん、5つ上の元くんがいました。三人ともとても仲良くしてくれました。その家では鶏とチャボが庭で放し飼いをしていました。動物が身が苦手な私ですが鶏が襲ってくることはなく逆に近づけば逃げていくのでさほど恐怖心はなかったですが、触ることはできませんでした。 ある日、物置の中で何かしている後ろ姿のおばちゃんを見てしまいました。床には白い羽根と血が散乱していました。そう、あの鶏を絞めていたのです。ゆがんだ顔の私を見ておばちゃんは何かを言ってたように見えましたが何を言っていたのかはわかりません。見てはいけない光景を見てしまったのです。その夜、我が家の食卓には小さい黄身と肉が入った煮込み料理が出てきました。私は無言のまま食事を終えました。 翌日、えみちゃんに聞いてみたらやっぱり鶏肉料理だったそうです。えみちゃんとこの庭に行ってみたらそこに鶏の姿はありませんでした。えみちゃんは知っていたのかもしれませんが未だにその事は誰にも言っていない私です。
 
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54郵便局
 
私がまだ小さいころ、といっても近所にお使いが行けれるくらいのころ、母に頼まれて郵便局に切手を買いに行きました。郵便局のドアを開け、窓口に女性の方がいるのが見えました。まだ背が小さい私は郵便局のカウンターから窓口の方が見えないまま「おばちゃん切ってください」と言ったところ、窓口の方が身を乗り出して私を見下ろし「今、おばちゃんって言った?今、おばちゃんって言ったよね」とスゴい形相で言ってきたことを覚えています。お姉さんと言われる年頃の女性としゃべったことのない私には「お姉さん」とは恥ずかしくて言えなかったのです。 窓口の方は「お姉さん切手くださいって言わないとあげない」とやや大きめの声で言いましたが、やっぱり恥ずかしい私は「お姉さん」とは言えずにモジモジしていました。次に女性が発した言葉は「私がおばさんに見えるの?ショックだわ!お姉さんって言うまで切ってをあげない」のような事を言われたのを覚えています。私は半泣き状態で小さな声で「お姉さん、切ってください」と言えました。すると女性は「もう少し大きな声でハッキリと言ってくれない?」と返してきて、私は目に涙を浮かべながら「お姉さん、切手ください」と言って、切手を受け取り走って帰りました。このやりとりも誰にも言えずに現在に至ります。その「お姉さん」の横には、あの怖いとなりのおばちゃんがいたのです。なぜか未だにこの光景は頭から消えず女性は怖いと子供ながらに植え付いたのです。 私が成長し、車の免許を取って間もない時にスピード取り締まりで捕まってしまいました。移動交番にはすでに同級生の加藤くんがいました。数日後、罰金を支払いに郵便局へ行きました。窓口には引っ越していなくなった、元となりのおばちゃん。私は素知らぬ顔でお金を支払いました。難なく事を終えたと思って帰ろうとすると、おばちゃんが「もうやったらあかんよ!」と。あの郵便局はなんか近寄りがたい鬼門の場所です。その時、あの「お姉さん」がいたかどうかは分かりませんでした。
 
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55焚き風呂
 
私が高校生のころまで我が家は薪を燃やす焚き風呂でした。幼いころは近所のお母さん達と子供達でブリキのバケツを持って近くの空き地にある小さな山から岩木を取りに行ってました。その山の名前は通称「岩木山」。時には私が風呂に火を入れる事もありましたが岩木の火力はそこそこあって重宝してました。高校生のころには友達の家で焚き風呂をしているところはなく、珍しがられていました。高校の土曜の午後には学校帰りの友達が家に寄って遊んでいきました。途中でカップラーメンなどの食料を買っては、夕方まで家で何するわけでもない時間をつぶしていました。母が庭で焚き物を斧で割っているのもちょっと恥ずかしかったですが裕福ではない家なので無理わがままは言えませんでした。高校当時はまだ薪を売っている店があり、オガライトと言う木くずを固めた六角で穴の空いた筒状の燃料材、火鉢に入れる練炭や布団の中で暖を取るためのアンカの豆炭や石炭までもが我が家にはありました。高校生になっても我が家には昭和の生活がありました。 そんな生活も高校三年生の時に、永年住んでいた平屋の長屋が取り壊されて4階建てのアパートになりました。風呂はガス釜になり、薪をくべる生活が終わりました。
 
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56誰にも言わない話し
 
なぜか私は知人の大切な話しを聞く機会がよくあります。もしかしたらその人は他にも話しているかもしれないですが、聞いた話しは他言無用の内容でとても私が口にしてはいけないものです。なんで私に話すのか?私がどうにもできない内容なのに。今までに聞いた話しは忘れるようにできる限る思い出さないようにしています。ある人に言わせれば「あんたは、言いやすい性格だからみんなが言うんだよ」と。そんな性格の私は他言無用の内容以外にも私が傷つく事もズバリ言われてしまいます。言われやすい性格の善し悪しですね。
 
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57就職
 
私が通っていた高校は工業高校で窯業科、家政科、デザイン科、服飾デザイン科がありました。卒業後の進路で半数以上は就職組でした。中学の時、先生から「何になりたいんだ?」という質問に「映画関係の仕事がしたいです」と答えた私は、高校三年生になってもその気持ちが残っていました。進路相談でもやはり「映画関係の仕事がしたいです」と言った私に対して先生は「とりあえず専門学校に行ってみなさい」と言ってくださり、いろんな学校を探してくれました。映画関係といっても仕事の内容はいくつもあり「これがしたい!」というのもなく漠然としていた私に「専門学校へ行ってから選べば良い」ということで、東京の専門学校の手続きをお願いしました。両親にもその旨を話し、了解を得ました。すでに結婚して家を出ていた姉からは「両親のことが心配でさみしいけど、あんたのやりたいことをやりなさい。」と手紙をもらいました。両親は入学金や仕送りなどの経済的な事もあっての決断をしてくれました。入学のための試験もなく入学金の前金を支払えばそれでよいのでした。 ある日、デザイン科の職員室にスーツ姿の方が入って行くのを見かけました。数日後、進路指導の先生から「これからデザイン室を立ち上げる印刷会社さんが人を探しに来たが、最初に思いついたのが松本だった」高校三年間ではクラスの室長を何度も経験していた私が将来のデザイン室を作れるのではと先生は直感したらしいです。「映画の仕事も大変だけど自分で作り上げる部署も魅力的ではないか?」と私を説得しました。そんな先生の熱い語りに心動かされた私は「映画関係」を諦めて「印刷会社」に就職することに決めました。そう、中三の時に希望校を土壇場で変えたあの時と同じです。今回もまた、専門学校に手付金を支払う寸前での土壇場で社会の入り口を変えたのです。その事を両親と姉に報告して地元の印刷会社に就職が決まりました。 会社の面接日が決まり先生に会社の場所を聞いたところ分からない。住所からしてそこは自宅の近くらしいけど私も知らない。両親に聞いてもよく分からない。結局先生が住所から大体の場所を聞き面接当日を迎えました。 会社に着いて分かった事が二つ。この会社の裏の田んぼでポンスケをしていたけど印刷会社があったのは知らなかった。そしてもう一つは面接当日に会社の玄関を開けようとしたら鍵が掛かっていた。先生の家に電話して確認しても日にちはあっているので「そんなはずはない」と言われましても人影のない会社だったし世間は休みだし。翌日先生から会社に連絡をしていただき面接日の変更になり、無事面接を終えました。 クラスの全員が就職先と進学先が決まっていて、決まっていないのが私を含めて二人だけでした。面接から一月以上が経っても連絡がなく、このままでは無職になってしまうかもという不安を抱えつつも楽しい高校三年生を謳歌していました。 その年の秋、印刷会社から「合格」の連絡があり無事就職先が決まりました。高校を卒業し、いよいよ初出勤の日が来て、スーツを着て会社に行きました。が、鍵が掛かっていた。私は家に戻り先生に電話をして「休みでした」と報告しました。そしてまた先生が連絡してくれて初出勤は翌日になりました。本来の初出勤の日は3月21日春分の日で世間が休みの日だったのです。 会社に入社して分かった事。同じクラスの就職が決まらなかったもう一人の同級生がそこにいました。これが、私が30年間大変お世話になった印刷会社でした。
 
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58グラフィックデザイン
 
バイトというものを経験していない私にとって社会人として仕事をする事が衝撃で、右も左も分からない事だらけの毎日でしたが先輩の方々が優しく教えていただき一つずつ仕事を覚えました。しかし、一年経ってもデザイン室の話しがありません。当時の仕事といえば印刷機にセットする版を作る工程である製版でした。暗室でフィルムを現像したりカッターナイフで専用のシートを切り抜いていました。それなりにやりがいのある仕事でしたが映画の仕事を辞めてまでの仕事なのかを高校の先生に相談したこともあります。先生は「とにかく辞めたらアカン」と言うだけで、私はその言葉を信じて仕事を続けました。 デザインの何が分かる訳でもない私でしたがこのままではいけないと思い切って社長に相談してみました。とは言え、社長はじめ社員の方々にデザインの経験を持つ人はいなく、当時外注先のデザイナーさんに相談することにしました。全く分からない私にデザインを教えることが無理でした。私はとにかくそのデザイン事務所に通い、デザイナーさんがしている仕事を見るだけでした。デザイン事務所といっても一人でやっている方で、私が行く度に世間話や烏口の研ぎ方を教えてもらうくらいで、具体的にどうするかはその方の仕事を見るだけで、会社には道具もない状態から一つずつ道具を買っていただき、見様見真似で挑戦しました。 最初はタイプと言われる機会で文字が印字されていたものに線を引くことから始まりました。未だに忘れられないのが「失敗は許されんぞ」と印刷工の方に言われたことです。線を引く道具と言えば年代物の烏口と事務所にあったモノサシだけでした。高校で使っていた製図器とモノサシを会社に持ち込み、版下と言われる印刷の原版を作ることがデザイナーとしての初仕事でした。製版の仕事を3年してきた私は次の工程で仕事がしやすい版下を作ることができるようになりました。 世のグラフィックデザインと言われる仕事がどれだけ地味な仕事かが分かりましたが、続けるうちにやりがいのある仕事になりました。新聞や雑誌、電車の吊り下げ広告、街に張ってあるポスターや新聞折り込みのチラシを見てレイアウトや色使いを参考にして自分なりのデザインの仕事ができるようになったのが、就職してから10年を過ぎていました。 そのころ世間ではコンピューターの進化が止まらず、やがて印刷業界にも影響がくる時代になりました。そこで出会ったのがアメリカのMacintoshというパソコンでした。それと同時に日本のPCと言われるパソコンも会社に導入することになり、今までアナログで線を引いたり文字を貼り付けたりしていた版下作業が卓上のコンピューター一つで熟せるようになったのです。デジタル化に伴い覚えることが山ほどありました。ペンで線を引く事は身体で覚えましたがパソコンはいろんなシステムや操作方法を頭で覚えなければならないのです。パソコンを導入しても聞くことができる人はいなかったので、同業者の印刷会社に何度も出向いて使い方を教わりました。進化に着いていくストレスもありましたが永年使ううちに頭だけではなく身体で覚えていたのでしょう。キーボードに手を添えて操作を簡略するためのショートカットという操作を左手が覚えました。 鉛筆や烏口からパソコンへ道具が変わってもデザインというものは流行廃りはあるものの基本は同じです。
 
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59研修
 
会社というのは社員の育成をするための研修というものがありまして、私もあちこちへ研修に行きました。主に東京と大阪ですが、主催者としては経費の都合でどうしても東京と大阪になりがちなんです。それで私は慣れない電車で都会へ行きました。東京は親戚がいたりテレビで情報を得ていたので地名などから大体の場所は分かっているつもりです。しかし、大阪はなんとも苦手な地域で、まず大阪弁からして苦手です。なんか叱られているような気がしてなりません。気質もあるのでしょうが、未だに私とは相性が合わない土地です。東京では新幹線を降りてからも私鉄やJRを使って目的地まで行けるのですが、大阪の研修では新大阪の駅を降りたらタクシー移動が常でした。同じ会社の先輩は大学が京都だったので関西には詳しく、一緒に行くときは先輩にお任せして電車移動ができました。 当時の社長さんは阪神タイガースのファンで関西方面は大丈夫のようでした。その社長さんとも研修へ行くことがよくあって、その時の食事は大変豪華です。時代はバブリーで、社長さんと行く研修では値段も見ないで注文してました。ある日、社長さんと主催者の方は仲が良く研修後の食事はいつも私を含めて三人で行きました。会社の社長さんともなれば食事の場所も我々とは違います。庶民の居酒屋ではなく私には敷居が高い小料理屋が多く、滅多に食べたことがないようなものを食べていました。動向の主催者の方が「好きなものを食べなさい」と言われても分からないので色々頼んで、当時私は食欲旺盛で結構量も食べられました。大阪の料理屋さんでは壁のお品書きに「オコゼの酒蒸し」と書いてあって値段はありませんでしたが、大将にに頼んで一人で食べてしまいました。お会計の時にこっそり大将に値段を聞いてビックリ、大きめの器に20センチほどのオコゼが酒出汁の中で一匹のお値段は8,000円!!食事が終わっていつも私は支払いをせず、主に社長さんにごちそうになってました。時には主催者さんが払うこともありましたが私が支払うことは一度もなかったです。ごちそうさまでした。 思えば研修の内容は現状の仕事を理屈で解説してくれる講師がいて納得して帰ってくるが、特にレポートを提出するわけでもなく、自分がどれだけ行動に移せるかが会社に対するまた、自分に対する課題でもありました。それともう一つ思うのは、日ごろの仕事からちょっとだけ息抜きをさせていただいたのが研修でもあったような気がします。ありがとうございました。
 
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60残業
 
私が印刷会社に就職して間もなく、世間は景気が上向き状態で頑張っている会社は成績が伸びる、バブルと言われる時代になりました。仕事の量も半端なく多くて8時5時の8時間の定時では熟せませんでした。残業は当たり前の毎日で次々に仕事が入ってくるのです。ピークの時は深夜1時が定時のような感覚で、徹夜も多く最長43時間連続で仕事をしていたこともあります。一日24時間の仕事をすると言うことは3日分の仕事しているので一月に50日分の仕事がありました。最多で一月の残業時間は160時間だったこともあります。バブリーな時代は今と違って残業手当もすべて付きましたので、基本給より残業手当の方が多かったりしました。さらに繁忙期には週に2、3度の徹夜があったりすると一週間風呂に入ることもなく会社で過ごしていました。夜のご飯は毎日店屋物で、メニューを選ぶのも煩わしかったのでほぼ毎日ラーメンと小ライスでした。いつもの店が定休日の時は寿司をとったりもしましたが夜食の代金以上に稼いでいたので食費については特に何も言われずただただ仕事をしているだけでした。 当時、社長さん家族は会社の二階に住まいがあり、時々社長さんが様子を見に来てくれたりもして、娘さんが夜食にラーメンを作ってくれたことも良い思い出です。仕事部屋には冷蔵庫もあって缶ビールを冷やしておいて夜中にビールを飲みながら仕事をしていることも時折。 会社の社員であり社長さんの息子的ポジションの自由な私は他の社員からのやっかみもあったようですが、こちらは身を削って一日2,3時間の睡眠で頑張っているのに誰も手伝ってくれないのですからこれくらいの自由は認めていただきたかったです。しかも、営業さんの仕事でもある、夜中に仕上がった版下を名古屋まで手配に行き戻ってからも引き続き仕事をしていたのですから多めに見て欲しかった。という感情的な気持ちがなかった訳ではないのですがとにかく仕事が最優先の時でしたので他の方々に迷惑も掛けて事でしょう。それが私の仕事でした。
 
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61選択肢
 
現在の私はできる限り前向きに考えるようにしているつもりです。先人達のことわざや名言を参考に現状の自分に当てはめたりして考え方を修正しながら前向きに考える習慣を身に付けようとしています。そんな中で私なりに気づいたことがありました。 生まれてから何万何億という選択肢を超えてきて現在に至ると考えました。もしあの時こうしておけば、とかの過去の出来事を考えても今更どうにもならないことです。仮に時間をさかのぼってやり直しができたとしても現在の私にはなっていないでしょう。もしかしたら自分の存在までが無くなっているかもしれないという結論になったのです。 例えば、目的地に行くまでにいくつかの道がある中で私が選んだ道を通ったからこそ目的地に着いたと思います。それ以外の道を通っていたら事故に遭ったり時間に間に合わなかったりする現象が起きると信じることにしています。現在までに私の存在が続いたのはその小さくて膨大な数の選択肢を通ってきたからだと思います。と言うことはこの先の未来に向かって自分が選ぶ選択肢に間違いは無く、明るい未来が待っていると信じております。 私が心がけているのは、明るい未来を作るには明日の楽しい事を計画して実行すると自ずとその先の未来も明るく楽しいはずと言う理屈です。ただ、過去にもあった悲しいことや辛い事もこの先にあるはずですが、せっかくなら楽しい事も予定に入れておいた方が良いと思いました。 ある方の名言ですが、「他人の迷惑にならない「欲望」はすべて善である。」「自分の力を発揮できるところに、運命は開ける」「努力は「天命」さえも帰る」などと言った方はそれなりの苦渋や至難を乗り越えたからこそ出てくる言葉だと思います。私のこれまでの生涯はさほど大したことではないですが身の丈サイズの幸福と希望をもってこの先も楽しみたいと思います。
 
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62横須賀(浦賀)
 
私が物作りをするようになって、作ったものを置いてくださる「ほたる子」というお店があります。今も何かとお世話になっている方です。そこへ訪れたお客さんが私のシーグラス照明をみて「誰が作っているんですか?」と店番の女性に尋ねたらしく、お客さんは連絡先を女性に渡してお帰りになりました。女性から連絡をいただき、私の作品について熱く語っていたと聞きました。しかし、このような場合は連絡してよいものかどうか迷いましたが結局連絡しました。 「夫と二人で近くの海岸を散歩してるんだけどシーグラスがいっぱいあるから取りにおいで。で、照明の作り方を教えてほしい。」という内容でした。お世話になっている店主も私も会ったことがないので行ってもよいものか?数日後その方から電話があって「いつ来る?早くおいで。」の言葉で行くことにしました。店主にも相談したら「気をつけて行っておいで。」と。確かにいろんな面で気をつけないと。と思いました。電話の声だけの知らない人のお宅にお邪魔するのだからそれなりの心構えも必要だから手土産と作品と道具を積んでいざ二月の横須賀へ。 カーナビもなくプリントアウトした地図を頼りに東名高速を走らせ、御殿場あたりでは雪が残っていました。横浜が近づくと期待と不安が混ざる中、「横浜町田インター」を降りて三浦半島を南下すると、聞いたことのある逗子、葉山、横須賀……の案内板。16号線から横浜横須賀線、通称「横横線」をさらに南下。終着手前の「浦賀インター」を降りて浦賀駅で待ち合わせをしました。ハザードを付けて待っていたら、後部座席のドアが開き「こんにちわ」って、いきなりの行動にびっくりしました。「松本さんでしょ?名古屋ナンバーだったからそうかと思って。」って、人違いだったらどうするんだろう?と思う暇もなく「前のサーフに付いてって。」「あ、はい。初めまして松本です。」とようやくご挨拶ができました。お宅へ着くまでの車中はその方のライブを聴いているようで、内容は覚えてないですがなんだか楽しかったことは覚えている。まもなくお宅へ到着して、先導してくれたハイラックスサーフからご主人が降りてきて、「いらっしゃい。お待ちしてました。」「宿は取ってあるの?」「いやまだです。」「泊まっていきな。」。なんだか期待と不安とか心配とかがどうでもよくなって、ご夫婦の言われるままにお宅へ上がらせていただきました。 会話も弾むようになり、ご夫婦の言葉に違和感があり。聞いてみるとお二人とも長崎のご出身だそうで納得。いつの間にか私もお二人のことを「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになりました。お昼ご飯をいただくことになりました。ホットプレートがコタツの上に設置され登場したのが焼きそばでした。卓上焼きそばパーティーが始まり和気藹々と団らんが続きました。食後には「一緒に行きたいところがある」と言うので、お父さんのサーフに三人乗ってしばらくのドライブ。着いた先が東京湾を見渡せる海岸でした。この海岸でいつもお二人で散歩を楽しみ、シーグラスを拾って持ち帰るそうです。一時間ほど三人でシーグラス拾いを楽しんだら、次に連れてってくれたのが一軒家風の喫茶店でした。庭にテーブルセットが一つ、店内にテーブルが二つ、その奥に畳み座敷がありました。その座敷では手芸教室が開催されていてお店のママが先生も兼ねているアットホームな雰囲気でした。おしゃべりが好きなお母さんが今日までの一連の出来事をママに言って、その流れで私がその店で個展と教室を開催することになっちゃいました。ここまでのことは、どうやらお母さんの計画になっていた気がします。話も進み結局6月に開催することになり、店を後に遠回りして横須賀の街を案内していただきながら途中のスーパーで買い物を済ませて帰宅。お母さんは夕食の用意を始め、お父さんと私はコタツで横になりテレビを見ながらくつろいでいました。なんだかとても幸せな感じを抱きながら横須賀までの疲れもあって私はそのまま眠りについてしまいました。 気がつくと、コタツの上には夕食が運ばれていました。そして、三人の食卓会話で分かったこと。お父さんは出光で永年勤務して定年退職して今に至ると。そして驚いたのは愛知県知多市の出光団地に住んでいたことも分かりました。未だに知多市には友達がいて連絡を取っているとのこと。食事も話も盛り上がっているころに、娘さんが帰宅。一緒に食べていると、娘さんが「いつもこうやって他人の家に上がり込んでるの?」と厳しい言葉。そりゃそうです。そうなるのが当たり前の世の中です。あったこともないおっさんが上がり込んで晩ご飯まで食べているのですから。しばらくその緊張感は続き、「私もこんな体験は初めてですよ。あまりにもお父さんとお母さんがの人柄がよくて、つい馴れ合ってしまってね」と返答して、それから娘さんとともお互いの心境が分かり合えました。さて、お風呂の順番ですが、これは何とも悩みましたがとりあえずお客さんである私が先にいただくことにしました。 皆さんがお風呂を済ませてからは、お母さんの希望でもあったシーグラスの工作教室が始まりました。リビングにはお母さんが描いた油絵や絵手紙がたくさんあって、作ることや描くことが好きなお母さんでした。実は、シーグラスの照明もすでに作られたようで見せてくれました。シーグラスを横に積み上げる方法で作ってあるんですが、私のように辺と辺を接着してタテに積み上げる作り方がしたかったようです。接着方法とかコツだとかを一緒にやってくうちに意外とハマったのがお父さんでした。流木で作った枠とか写真のフレームだとかを持ってきたので三人で楽しく工作する夜でした。ちなみに、娘さんは興味がなくお父さんがハマっているのをみて笑みをこぼしていました。 夜も更けて就寝の時間です。このお宅の建物は一見平屋に見えるのですが、斜面に建てられた家で玄関やリビングのあるのが実は二階で、階下の部屋が一階と。なんだか楽しいお宅です。住宅を探していてこの作りが気に入って建て売りを買ったそうです。一階には3部屋あって一つは物置部屋で、一つが娘さんの部屋、その隣が客間。娘さんの部屋と襖一枚隔てた部屋で寝ることになるので緊張感がないと言っては嘘ですが、とてもやましい気持ちはありません。それより、いびきが出たらどうしよう?とか屁が出ちゃったらどうしよう?とかが心配でした。 翌朝、目覚ましがないので自然に目が覚めたら8時過ぎ。少し焦ってリビングへ行ったらお父さんとお母さんはすでに起きていて朝食を待ってくれてたようです。すんません。朝食はトーストとコーヒーで、パンに塗るのがお母さんのお手製の少し甘めのマーガリンと、これまたお手製のジャムと目玉焼きとソーセージ。家庭でのゆっくりとした朝食タイムは浮世離れの贅沢な時間でした。 お母さんの片付けも終わりお父さんがお出かけの準備。お父さんが運転してハイラックスサーフで三浦半島を案内してくれました。娘さんはお昼ころまで寝ているらしいのでお留守番だそうです。東京湾を左手に三浦半島を南下するドライブ。第一目的の三浦半島先端の三崎でお昼ご飯をいただくことになりました。マグロの水揚げで有名な三崎港のレストランで、船から鎖で20匹ほど釣り上げられる冷凍 マグロを身ながらマグロ丼をいただき、お酒が苦手なお父さんに甘えて生ビールも一杯いただきました。その後、三浦半島の西海岸を北上するルートで天皇御用邸のある葉山の立石海岸でシーグラスの検証。この海岸は小粒なシーグラスが多くてお持ち帰りは少なめで。さらに北上すると逗子まで行きその先は鎌倉になるので今日のところはここから三浦半島を横断して帰路につきました。三浦半島には山がなく丘陵地に畑の風景が広がります。私の住んでいる知多半島にも似ている光景ですが、横須賀、逗子、葉山と言う地名が全国区なのでおしゃれ感がスゴいです。東京からのドライブにもちょうどよい地域なので品川ナンバーなどの東京からお客さんがそこそこいて、やっぱり名古屋圏内の知多半島とは違いを感じます。お父さんのハイラックスサーフは横須賀市に戻ってきて、昨日お邪魔した喫茶店に立ち寄りました。お父さんと私は庭のテーブルでタバコを一服しながらコーヒーをいただき、お母さんは店内でママとおしゃべり。 家に帰ったらお母さんは夕飯の準備、お父さんは運転の疲れもあってコタツでお昼寝タイム。私はお母さんとおしゃべりしながらお茶をいただきました。お母さんは物作りも好きですが実は卓球も永年されていて横須賀のシニアクラスで優勝する腕前と聞きました。週に何度も練習に出かける間、お父さんは一人お留守番。家から歩いて行きつけのあの海岸まで散歩をしているそうです。家事に卓球に絵手紙に忙しいお母さんとは逆に家でゆっくりくつろぐお父さんをお母さんは心配していたことを知りました。そんな折、私のシーグラス工作を知り、趣味のないお父さんにどうだろう?と思って呼び寄せたことも今回の目的の一つでもあったことを知りました。 夕食を食べているとお客さん。同郷でお母さんの幼なじみの友達がご夫婦で来られました。私の情報はすでにお母さんから聞いていたようですが、こちらのまた今日が始めましてとは思えないほどの気さくなご夫婦でした。お母さんとその友達は、なんと話題にもなっている長崎の軍艦島出身で貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。
 
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63高校受験
 
小学生の時から勉強というものに興味はなく、宿題もそこそこのお気楽な子供でした。テストで点数が悪くてもさほど焦りもなく、こんなもんかなと考えていました。中学生になりクラスや学年で順位が付くようになっても上位に上がる気もなく、二年生の時に夏休みの宿題をほぼしていかなかったことがあり、その時は各教科の先生達に散々叱られました。ある先生からはビンタさえいただきました。なぜ、そこまでして勉強をしなければならないのかが理解できませんでした。三年生の夏休みにはさすがにできるできないは別として形だけの宿題を提出して二学期を迎えました。そのころから、高校受験という言葉を聞くようになり、先生ではなく友達に受験の何たるかを聞いたときにゾッとしました。世の中の社会に出るには勉強も必要であることがようやく理解できたのです。それからは恥も外聞もなく勉強というイベントに集中しました。分からないことは先生に聞いたり、友達に教えてもらったりの毎日でした。 順位としては、当初180人中165番くらいで、まだ下の連中もいましたがお気楽に構えることはできずひたすら勉強をしました。中学三年生の三学期にはなんとか65番まで順位が上がり100人抜きをしました。先生達には不審に思われたかもしれませんが、不正をしてないことは本人が一番分かっているので堂々としていました。二年の時の夏休み明けにビンタをいただいた先生からは励ましの言葉をいただいたときは嬉しかったことを覚えています。 今思えば、15歳のそのころに将来の自分などは考えることはできませんでしたが、二年生の時の担任の先生から「何がやってみたいんだ?」との質問にそう答えてよいのかも分かりませんでしたが「何が好きなんだ?」と聞かれ「映画です」と答えたら先生はそしたらとりあえず普通科の高校に行って、それから進路を決めなさい。と言われたので、そうすることにしました。この時、なぜ二年生の時の担任かと言うと三年の担任は私のことが好きではなかったのか日常から相手にしてもらえませんでした。順位が上がったときも何も言わなかったり、家庭訪問の時には親に対してぶっきらぼうな態度で接したりと、私もその担任が好きではありませんでした。で、二年生の時の担任やビンタを喰らった先生とかの大人に相談をしていました。 ある日、新設校ができると聞いて先生からも「デザイン科というのができるがどうだ?」と聞いたときに、何かを感じたのか「先生、俺そっちにする」と答え、そちらの高校を受験することに決めました。 他にもデザイン科を希望する生徒達を集めて美術の先生が放課後の「特別授業」を設けてくれました。そこでは主にデッサンをしました。受験の課題にデッサンと立体造形の二つが学科以外にあったので先生は熱心にデッサンを教えてくださいました。そんなある日、あのビンタ先生が様子を見に来て「おまえ、絵を習ってたのか?」と。「いや、習ってません」の返答に「おまえにそんな才能があったとは思わんかった」なんて言われて嬉しかったですが、陸上と一緒でそこそこまではできるのですがそこから先は努力型で、伸び悩むのが私の性格です。 そして、受験当日の朝。親父に「常滑高校ってどこにある?」。「おまえ、何で予め調べとかんかったんだ!」と。そうです、私にはこういった土壇場でこんなことになることがあって、周りの人にご迷惑をお掛けするんです。高校までの道を聞いたけど、行ったことがない場所なんでわかりませんでした。まぁ、方角の南方は分かりましたので大勢の学生が行くところだから大丈夫かな?と。 受験は終わり、すぐ帰宅して入試のテレビ解説番組があったのでなんとなく見て、答え合わせをしてみたら、???。なんかヤバいんじゃないのか?と思って途中で見るのを止めた。数日後の合格発表へ行く途中、同じ中学でデザイン科を受験した人と道ですれ違い、「あんたの番号あったぞ」と。なんであいつが自分の番号を知っているのかと半信半疑で会場へ行きました。そこには、見覚えのある受験生があちこちにいて皆さんの顔つきが様々で緊張感が伝わってきちゃいました。当時、視力が良くて遠くからでも自分の受験番号が分かりました。念のため近くに行ってよく見たらやっぱり自分の受験番号「51」がありました。なんかラッキーと思いながらその足で中学に行き先生方に報告をしました。 そこで、先生に言われて分かったこと。「2倍の難関をよくがんばったな」と言われても2倍って……。「二人に一人は落ちるってことだ!」。前に受けるはずだった普通科は1.1倍とか。「そうだったのですか~!!!」  それが私の高校受験でした。
 
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64入学式(高校)
 
高校の入学式で、私の座る場所がイマイチ分からず、とりあえず空いてる一年生の席に座っていたら後ろから女の先輩が「どこの科?」と声を掛けてくださり「デザイン科です」と答えたら「ここじゃないよ」と優しく誘導してくれました。優しいお姉さんに声を掛けられたことと間違っていたことで顔面は真っ赤。パイプ椅子に書かれた出席番号「6」に着席。前後の生徒は来れなかったの、かいきなり登校拒否なのか想像してました。やがて入学式は進みましたが「5」と「7」の席が空席のまま入学式が終了。教室に行き着席したら前後の生徒も着席してました。「座る場所が分からんかったもんで一番後ろに座っとったて~!」おんなじ事やっとる。と思い安心しました。声掛けしてしていただいたお姉さんに感謝です。
 
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65入学式(中学)
 
私の通った中学の男子は全員五分刈りの丸坊主が義務でした。小学六年生の冬休みには床屋へ行きバリカンで遠慮なしに刈られました。恥ずかしいのなんのって、年下の近所のちびっ子が帽子を取りに追い掛けられました。違和感を帽子で隠していたのにちびっ子達には格好の相手です。 隣町の小学校と一緒になる中学の入学式では知らない奴らとの緊張感が満載でした。隣町からこちらに越してきた同じ小学校の友達が懐かしそうに会話をしたり丸坊主の頭を叩いたりふざけたりの光景をを羨ましく後ろから見ていました。そこへ混ざろうと近寄って、友達の頭をパ~ンって叩いてやりました。その友達が横にいました!!じゃぁ、あれは誰?って事になり急いで自分の席に戻りました。全員丸坊主で後ろからでは誰が誰やら分からなかったんですね。あちゃ~!ヤベ~!どおしよう?!ゴメ~ン!と思いながらの入学式でした。その後、彼とは友達になって一緒に遊ぶ仲になり、入学式の一件を説明したら忘れてました。
 
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66角島先生
 
高校一年の担任の先生は角島純先生でした。180センチで大柄で色白の女生徒からの人気の先生でした。新設のデザイン科で新卒の先生とフレッシュな一年生は初々しく楽しい雰囲気で毎日が充実していました。授業は教科別に先生が代わり個性的な先生が多かったです。そんな先生方の仲でもやっぱり担任の角島先生は別格でいろいろ相談したり、デザインの授業も角島先生でした。二年生では担任が替わりましたが私は何度かクラスの室長をしていたので毎日のように角島先生とは交流がありました。卒業後もクラス会では必ず来てくださり、同級生はそれが楽しみで参加率も高かいクラス会でした。 私が会社を退職するときに角島先生に退職に至る経緯を報告へ行きました。ちょうどそのころ、私が受験する予定だった普通科の高校と統合することが決まり、規則の厳しい高校での教師という仕事に抵抗があって悩んでいたそうです。「オレも辞めようかなぁ」と、先生がポツリと言いました。そんな会話をする中で、先生が渓流釣りをするので一緒にどうだ?となり、二人で渓流釣りに行くことになりました。夜中の二時に先生宅に行き、そこからは先生の運転で長野県大滝村の阿寺川に付いたのが朝7時ころだったような。コンビニで昼食を買うついでに餌を買った。コンビニで餌が買える時代なんですね。餌と言ってもイクラの瓶詰めですが、栗虫もありました。釣り竿から道具や仕掛けまで先生が用意していただき、オマケに胴長まで貸していただきました。 海釣り専門の私には渓流釣りの感覚が分からず、なれるまでに少し時間が必要でした。結果、ビギナーズラックの釣果で「渓流釣りがこんなもんだと思うなよ」と。はい。わかりました。数日前に降った雨で水かさが増した後だったのか水たまりに大きなイワナがいましたが「見えてる魚は釣れないぞ」と、先生の忠告を無視してタイドプールに餌を投入。なんと釣れちゃいました。川の中での魚の住処が分からない私は、目をこらして魚影を探して餌を投入する釣法で、後に渓流マニアに言わせても見える魚は絶対釣れないと言ってました。そもそも川の流れの中で魚影を見つけることが難しいそうです。山形の朝日川で鍛えた能力ですかねぇ? 私が個展を開催するときには必ず角島先生にはハガキを送ります。そして、必ず来てくれます。年に一度はランチをごちそうしてくれます。そんな角島先生は先生であり兄貴です。
 
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